第三話 勇者の噂
リバーシ騒動が落ち着いてから数日後。
ラウルの町は平和だった。
実に平和だった。
朝から冒険者ギルド『銀麦亭』の受付カウンターで仕事をしている美咲は、そんな日常を心から満喫していた。
依頼書の整理。
報酬の計算。
冒険者の受付。
魔王軍との決戦に比べれば、欠伸が出るほど平和な仕事である。
「おはようございます」
「おう」
ギルドマスターのガルドが片手を上げる。
「今日も平和ですね」
「そうだな」
二人とも満足そうだった。
平和は素晴らしい。
本当に素晴らしい。
だからこそ。
ギルドの扉が勢いよく開いた瞬間、美咲は嫌な予感しかしなかった。
「ミサさん!」
飛び込んできたのは行商人ダリオだった。
息を切らしている。
しかも妙に興奮している。
ろくな話ではない。
経験がそう告げていた。
「どうしました?」
「少しお話が」
「面倒ですか?」
「たぶん」
「帰ってください」
「まだ何も言ってませんよ!?」
結局、応接室へ移動することになった。
ガルドも同席している。
ダリオは椅子に腰を下ろすと、珍しく真面目な顔になった。
「まず確認したいことがあります」
「なんでしょう」
「ミサさん」
嫌な予感がした。
とても嫌な予感だった。
「勇者様ですよね?」
沈黙。
部屋の空気が止まった。
美咲は固まった。
ガルドは酒を飲んだ。
ダリオは真顔だった。
数秒後。
「違います」
即答した。
「本当に?」
「本当です」
「絶対?」
「絶対です」
ダリオは懐から一枚の紙を取り出した。
美咲は見た瞬間に頭を抱えた。
勇者時代の似顔絵だった。
王都で配られていたものだろう。
特徴はよく捉えている。
そして今の自分とも十分似ている。
「似てますね」
「本人だ」
ガルドが言った。
「ガルドさん!?」
「今さら隠しても無駄だろ」
裏切られた。
完全に裏切られた。
ダリオは苦笑した。
「やっぱりそうでしたか」
「いつ気付いたんです?」
観念して聞き返す。
「最初は気のせいだと思ったんです」
ダリオは話し始めた。
「でもリバーシの件で王都へ行った時に思い出しまして」
「何をです?」
「勇者様の話です」
嫌な予感しかしない。
「それに」
ダリオは少し身を乗り出した。
「王都では有名でしたからね」
美咲は机に突っ伏したくなった。
「何がです?」
「『魔弾の殺主』」
思わず額を押さえた。
その名前は聞きたくなかった。
本当に聞きたくなかった。
「やめてください」
「有名ですよ?」
「忘れてください」
「無理です」
即答だった。
ダリオは苦笑しながら続ける。
「私も戦場にいたわけではありません」
「ならなおさら忘れてください」
「でも噂は知っています」
美咲は諦めて天井を見た。
逃げ場がない。
「魔王軍の幹部が次々と死んでいく」
「……」
「どこから撃たれたかも分からない」
「……」
「気付いた時には死んでいる」
「……」
「だから『魔弾の殺主』」
美咲は深いため息を吐いた。
半分正解。
半分不正解。
実際はフェンリルを狙撃銃へ変形させて遠距離射撃を行っていただけだ。
ただし距離は普通ではない。
山を挟んだ先。
数キロ先。
魔法支援込みとはいえ、人間の常識から外れた距離だった。
当然、撃たれた側は何が起きたか分からない。
結果として妙な噂だけが残った。
「ただ仕事してただけなんですけどね……」
「十分怖いですよ」
ダリオは苦笑した。
そして続ける。
「もう一つ」
「聞きたくありません」
「『血塗られた舞姫』」
美咲は顔を覆った。
そっちはもっと嫌だった。
「なんでそんな名前になるんですかね……」
「格好いいじゃないですか」
「全然です」
ガルドが横で笑っている。
殴りたい。
本気で。
ダリオは楽しそうに話を続ける。
「これは有名ですよ」
「知ってます」
「最前線へ単独突撃」
「やめてください」
「魔王軍の大軍へ飛び込む」
「やめてください」
「舞うように戦う」
「やめろと言ってます」
「そして返り血で真っ赤になって帰ってくる」
沈黙。
ガルドが吹き出した。
「お前そんな呼ばれ方してたのか」
「知ってたでしょう!?」
「知ってたが改めて聞くと笑えるな」
全然笑えない。
当時の美咲としては必死だった。
味方が押されていれば助ける。
包囲されれば突破する。
敵指揮官を撃つ。
撤退する。
それを繰り返していただけだ。
結果として周囲からは舞っているように見えたらしい。
そして戦闘後には返り血で真っ赤。
今思い返しても酷い。
「だから嫌なんですよ」
「でも英雄らしいじゃないですか」
ダリオが言う。
美咲は首を横に振った。
「英雄っていうのは」
窓の外を見る。
平和な町並みが見えた。
「血まみれにならなくていい人のことを言うんです」
ダリオは少しだけ黙った。
そして静かに頷いた。
「実はですね」
「はい?」
「私の叔父が北部戦線にいたんです」
美咲の表情が少し変わる。
戦場を知る人間だった。
「叔父は言ってました」
ダリオは当時の話を思い出すように語る。
「勇者様が来ると安心した」
「……」
「でも同じくらい怖かった」
美咲は何も言わない。
「敵にいたら絶望する」
「……」
「味方にいても怖い」
「……」
「そんな存在だった、と」
ガルドが鼻で笑った。
「当たり前だろ」
「当たり前じゃありません」
美咲が即座に否定する。
だがダリオは首を振った。
「何万もの魔族を殺し続けた存在ですよ」
「戦争でしたから」
「それでもです」
ダリオは苦笑した。
「王都の令嬢に本当の戦場を見せたら失神しますよ」
「それは否定できません」
むしろショック死するかもしれない。
王都で語られる勇者は綺麗な英雄譚だ。
だが実際の戦場は違う。
血と泥と死体の山だった。
美咲は二度と戻りたくないと思っている。
ダリオは立ち上がった。
「安心してください」
「何がです?」
「王都へ知らせるつもりはありません」
美咲は少しだけ肩の力を抜く。
「本当に?」
「本当です」
「なぜです?」
ダリオは不思議そうな顔をした。
「だって誰も信じませんよ」
確かにそうだった。
王都では今も様々な噂が飛び交っている。
勇者は死んだ。
元の世界へ帰った。
隠居した。
他国へ渡った。
王家に匿われている。
好き放題である。
そんな中で、
『勇者が辺境の町で受付嬢をやっています』
と言われても誰も信じないだろう。
美咲自身でも信じない。
「それに」
ダリオは笑う。
「王都へ戻りたいんですか?」
「嫌です」
即答だった。
一秒も迷わなかった。
ガルドが大笑いする。
「だろうな」
王都。
貴族。
権力争い。
利権。
陰謀。
思い出すだけで疲れる。
今の生活の方が百倍いい。
受付嬢。
平和な町。
静かな日常。
それで十分だった。
ダリオは扉へ向かう。
だが途中で足を止めた。
「そうだ」
「なんです?」
商人らしい笑みを浮かべる。
「また特許になりそうな物があったら呼んでください」
「嫌です」
即答した。
「即答ですか!?」
「面倒事が増えます」
「お金になりますよ?」
「十分です」
「王都の商人が泣きますよ?」
「知りません」
ダリオは大笑いした。
「分かりました」
そして一礼する。
「でも、本当に何か思いついたら声をかけてください」
「考えておきます」
考えるだけである。
やるとは言っていない。
ダリオは満足そうにギルドを後にした。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
ガルドが酒を飲みながら呟いた。
「次は何を作るんだ?」
美咲は即答した。
「作りません」
その返事を聞きながら。
自宅の棚の上で眠るフェンリルだけが、遠く離れた場所で起きている会話など知らないまま、静かに眠っていた。
少なくとも今は。
まだ平和な日々が続いていた。




