第2章 第32話 裂け目と荷馬車と旅立ちと
最初に気づいたのは、ヤギだった。
二頭が同時に鼻を鳴らす。
白い息が、いつもより荒い。
「聞こえたか?」
シャールヴィが無意識に斧の柄を握って外に出た。
颯太には、はっきりとは分からない。
でも、雪の下で何かが軋むような、低い震えが足裏に伝わった。
キュッと、踏み固められた足元が鳴る。
その音の奥に、別の重たい響きが混じる。
林の端が、ゆっくりと沈んだ!
倒れるのではなくて、根元から、木々がずるりと横へ滑る。
雪煙が上がり、その下から、色の違う白が現れた。
風の匂いが変わる。
乾いて冷え冷えとした空気。
鼻の奥がひりつく。
レスクヴァが水場を見る。
浅い溜まり水の表面が、端から白く曇り始めている。
音も無く薄氷が広がる。
シャールヴィの喉が鳴った。
「こんなんで父さんたちが戻ったら...」
トールは地面を一度踏み直す。
雪の大地が低く鳴る。
「境目が近い」
ロキは戸口から空を見上げる。
雲は低く、流れが早い。
「揺れの元は、向こうだ」
遠く、白の向こうで影が動く。
背の高い影。
霜をまとった巨体の群れ。
「ヨッツン、多いな」眉間に皺を寄せてトールがつぶやいた
あの巨人はヨッツンというのか...
そのうちの一体が、ゆっくり足を踏み出しこちらへ方向を変えた。
家が揺れてギシリギシリと音を立てる。
「立つぞ」トールの声は低いが、迷いは無い
「ここで受ける時ではない。世界の揺れを止めねばならない」
シャールヴィは家を振り返る。
土の床。火床。煙で真っ黒になった梁。
さっきまでの鍋の湯気。
レスクヴァが小さく息を吸う。
「残れば、呑まれる」ロキが軽く言う
兄妹は、ほんの数息だけ戸口を見つめたあと、うなずいた。
颯太はその素直さに戸惑いを感じた。
家を捨てること、そして、運命を受け入れることにためらいが無い...
そして、巨人は歩いて来る。
家の脇には、荷車があった。
厚い板で組まれた無骨な箱型。
鉄の輪を打った車輪。
側面に残る古い傷。
生活の匂いが染みついている。
兄妹が必要な物を荷車に投げ込む。
干し肉の袋。穀物。鍬。斧。革紐...
生活がそのまま積み込まれていく。
ヤギが鼻を鳴らす。
前脚が雪を踏みしめる。
トールが無造作に手綱を結び、
「乗れ」と、割れ鐘のような声でうながした。
荷台に藁が敷かれている。
それでも板の硬さが体に伝わる。
レスクヴァが軽く跳び乗る。
シャールヴィは後ろに立つ。
「揺れるよ」レスクヴァがキツい顔をして笑った。
ヤギが踏み出す。
ギシィ、と車輪が重苦しく鳴る。
そして、雪を押しのけ、ゆっくり動き始め、
勢い良く加速を始めた。
荷台がガクッと激しく弾む。
「うわっ」俺は慌てて荷車の横板にしがみついた。
雪乃がバランスを崩す。
雪乃が落ちる...
いなくなる。
白い中に、消える。
一瞬、胸が空っぽになる。
「雪乃!」と名を叫びかけて、喉が詰まる。
片手で必死に支えた。
雪乃目が、大きく開いたまま俺を見る。
指が、腕に食い込む。
ヤギは駆け続ける。速い。
低い重心で、雪原を突き進む。
鼻息が荒い。二頭の息が大きな湯気となって連なって行く。
蒸気機関車のようだ。
風が頬を打つ。
振り返ると、家もう遠く、小さく見える。
レスクヴァが後ろを見て、声を張る。
「落ちるなよ!」誰に向けたわけでもないような強い声。
俺はうなずく。声は出ない。
車輪がきしむ。
その音は、さっき聞いた大地のきしみに似ている。
巨人...ヨッツンは、歩みを止めず、家のそばまで来ている。
ヤギの荷車は、トールの言う裂け目へ向かう。
あの家まだある。
でも、もう同じ場所にはならない。
車輪は回る。境目へと。




