第29話 心の壁
風呂場の囲いは板を立てて並べただけの簡単な仕切りだ。
腰ほどの高さ。
湯が周りに跳ねないようにするためのものらしい。
囲いの中には、体育座りをして何とか入れるくらいの大きさの木のタライがあり、湯が少し入っている。
そのそばには湯が半分ほど入った木の桶があり湯気が上がっている。桶の上に柄杓。これで桶の湯をすくって体にかけるのかな。
近くに立てば、体を洗っている人が見えてしまう。
雪乃がそれを見て、明らかに落胆した声を漏らした。
「これが...お風呂?」
しばらく呆然としていた。
それでも覚悟を決めたようで、
「あの...お風呂、入っても、いいかな」と言った
そんな重苦しい雪乃とは対照的に、
「いいぞ」シャールヴィが軽く答え、
桶に手を入れて湯をかき混ぜ、温度を確かめる。
それから囲いの横に置いてあった鍬を手に取り、刃先を大きな平たい石にこすりつけて研ぎ始めた。慣れた手つきで刃をならし整える。
風呂の囲いのすぐ横で。
「あの...」困惑した雪乃の表情
「どうした?」シャールヴィが顔も上げずに聞く
「入らないのか? 冷めるぞ」本気で不思議そうだ
雪乃が体を洗おうとする場所のすぐ横にいて、相変わらず動こうとしない。
シャールヴィの雰囲気から悪気やからかいは感じられない。
ただ、自分は作業の続きをする。体を洗いたければそうすれば良い...それだけの感覚。
「あの...」白崎さんは思い詰めたような顔で足元の地べたを見つめている
「何なんだよ!?体洗いたいんだろ?早くしなよ。お湯が冷めちゃうぞ」シャールヴィは呆れたような表情
「体を洗うので...」うつむいたままの雪乃の言葉は弱々しい」
「だから早くしなよ。またお湯を沸かすのには時間がかかるし」
付き合いきれないと思ったのかシャールヴィは農具の手入れを再開した。
レスクヴァが囲いの横に来て、雪乃の様子を眺め、
「ほんと、何を言いたいのかしら、この子」不思議そうな顔をして言った
雪乃が俺を振り返って見つめる。その眼差し...
俺と雪乃の間に、気づきと諦めの気持ちが生まれていた。
...やっぱりこの世界の感覚は自分たちとは違う...
そして...雪乃は俺と似てると感じた。
普通、女子はこんな状況なら、冗談めかしたり怒鳴ったりして『あっち行け!』と意思表示をするだろう。
それすらできないほど、彼女の心は厚い壁に覆われているようだ
トールの肩から『降ろして!』と叫んだ時のかすれ声。
あれは、高くて怖いからだけでなくて、人に頼めない苦しさのうめきだったように今は思う。
「一条くん...」雪乃が俯いたままつぶやいた
これは彼女なりの必死の懇願なんだな。代わりに俺に言って欲しいのだと。
俺も人に物を頼むのが苦手だ。そして頼み事を拒否するのも苦手だ。
中学時代に染み付いてしまった負け犬根性。
なんとかしなくちゃと、いつも意識はしている...
俺はシャールヴィに声をかけた。
「ちょっとさ、あっち行こうよ」
「どうした」シャールヴィが意外そうな顔をして俺を見上げる
「いいから」
炉のそばまで連れて行く。
「人が風呂に入ってる時は...見ないだろ、普通」
俺が小声で言うと、シャールヴィは眉を寄せる。
「なんでだ?」本気で解らない顔
同世代のシャールヴィを納得させることさえ難しいのに、
トールやロキに頼むのはもっと...
その時、ロキがくすりと笑った。
いつの間にか近くの椅子に腰掛けてニヤニヤしている。
トールは腕を組んだままだ。
「もういいか?僕は作業をしてるんだ」シャールヴィが文句を言う
「人の子は面倒だな」愉快そうなロキ
普通ですよと心の中で反発する俺。
「外へ出てもらいたいようだ」ロキがさらりと言った
「なぜだ」トールの問いはまっすぐだ。
「人の子の作法らしいぞ」ロキが肩を揺らして笑う
トールは小さく鼻を鳴らすが、立ち上がる。
シャールヴィも首をかしげながらついてくる。
俺は三人と共に外へ出た。
寒い!
しかし、まさかロキに助けられるとは思わなかった...




