第21話 さらば温泉
湯気の名残は、まだ空気に漂っていた。
さっきまで確かにあった温もり。
肌にまとわりついていた柔らかな湯気。
入りそびれた温泉の熱気。
それが少しずつ、この世界の冷気に押し戻されていく。
「寒...」思わず声が出た。
別の湯だまりに入り直そうかと思ったが、またも目の前で凍った。。
そうこうしているうちに、一帯の熱気も冷めていった...
骨の奥まで寒さが戻り始めていた。
現実は容赦がない。
泉のほとり。
さっきまで湯だった場所は、もう静かな水面に戻っている。
白い湯気は消え、ただ透明な揺らぎだけが残る。
「あんなに温かかったのに...」雪乃が小さくつぶやく。
どこか未練がましい響き。
それが少しだけ可笑しくて、少しだけ共感できた。
「夢みたい...」
本当にそう。
一瞬だけ湯に浸けた指先がジンワリと温まる血が巡るあの感じ。
この寒過ぎる世界で制服だけで過ごした身体には、あまりにも尊かった。
だが。
今はもう、いつもの冷たい空気。
そして...相変わらず厳しい温度のはずなのに、
それでもやはり、凍え死ぬ気配まではない。
この感覚にも、まだ慣れない。
「急に冷えたな」背後からトールの声。
振り向くと、巨大な男は泉を見下ろしていた。
腕を組み、いかにも興味なさそうな顔で。
「残念です...」冷えたという言葉にあらためて気分が下がった。
「何がだ?」真顔のトール
「お湯がです」
「それがどうした」なんでそんな不思議そうな顔をする
「温かくて気持ちいいじゃないですか...」
「湯は湯だ」関心度ゼロな表情
完全に価値観が違った。
この大男にとっては、風呂とは特別なものではないらしい。
俺たちとは異なる思考の人種らしい。
「人間は面白いな」ロキがくすりと笑った。
相変わらず他人事みたいな口調。
黒い長衣のまま、泉の縁にしゃがみ込んでいる。
細い背中。猫背のシルエット。
「たかが湯でそこまで心が揺れる」
たかがじゃない...お湯は重要だ。
文明生活の憩いの象徴と言ってもいい。
「丸一日以上、風呂なし生活だったし、俺は入れなかった...」
言いながら、自分でもげんなりした。
雪乃が申し訳なさそうな顔をした。
「あ...」
気まずい沈黙。
言わなきゃ良かった。
さっきのやり取りを思い出す。
(の、覗かないでね...)
あの一言。
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
いや見てない。
本当に見てない。
だが...
想像力という厄介な機能までは止められない。
「一条くん?」雪乃がいぶかしげにこっちを見つめている
「え?」
「顔、赤いけど」首を傾げる雪乃
入浴した温もりで頬がツヤツヤして瑞々しい雪乃...まぶしい。
つらくて顔をそむける。
「え!?顔が、赤いって? いや、別に!きっと寒暖差で!」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
ロキが肩を震わせてやがる。
絶対に笑っている。
「若いな」
やめろ〜〜〜。
そういう言い方をするな。
雪乃がわずかに頬を赤くし、そっぽを向いた。
「もういい...」耳まで赤くなっている
何がもういいのかは分からないが、
色々と察したのだろう。
俺はたぶん変態妄想思春期野郎のレッテルを貼られた。
トールが大きく息を吐いた。
「行くぞ」いつもの唐突さ
「え?」
「もうですか?」
「お前らが有り難がっていた湯は消えただろう」
まぁ、そうだけど。
「長居する理由はない」執着が無さ過ぎる
だが反論できないのも事実。
こんな所で立ち止まる理由の方が少ないか。
雪乃が小さく息を吸い、うなずく。
「うん」名残惜しそうに泉を振り返る
こんな世界にあって、雪乃のそんな仕草が人間らしくて少しホッとした。
俺も同じ気持ちだよ。いや、もっとかも...お風呂...
トールがマントをバサリと翻した。
焦茶色の毛皮が空気を払う。
「入れ」
来た。いつも問答無用である。
「あの、まだ心の準備が...」
「準備? 運ばれるだけだぞ?」巨大な男は本気で理解不能という顔をしている
問題はそこじゃない。
雪乃と目が合う。
一瞬の沈黙。
「入るしかない、よね...」と、うつむく雪乃
「だね...」諦めの共有。覚悟を決める
再びあのマント袋へ。
暖かいが、狭い。
快適とは言い難いが、歩くより遥かに楽。
楽と言うか、俺たちの歩きではトールについていけないから。
トールの背中へ向かう。
毛皮の洞穴。
ためらい。
そして、マントの中へ潜り込む。
続いて雪乃が遠慮がちに脚を入れて来る。
「失礼します...」相変わらず、とても礼儀正しい
マントの袋が閉まり、毎度の薄暗い空間。
そして...
「近...」また気持ちが口に出てしまった
「言わないで」即座の小声
半ばお約束になってしまった感すらある。
ドサッと揺れる。歩行開始。
世界がまた大きく上下し始めた。
温泉の夢は、あっさりと終わった。
さらば、入りそびれたお風呂...
代わりに戻って来るのは、絶え間ない揺れと、
どうしようもなく落ち着かない雪乃との距離だった。




