第19話 緑の谷
揺れる。
上下。左右。前後。
容赦がない。
「う、うわ、うわぁ...これ...!」
歯がガチガチ鳴る。
舌を噛みそうになる。
トールの歩行は地形変動に近い。
マント袋の内部で、俺と雪乃は激しくシェイクされていた。
「い、一条くん...これ...速くない...?」
「速い!どうしてこんなに!?」
地面の起伏かトールの左右交互の激しい着地がそのまま身体へ伝わる。
内臓が揺れる。人間用の乗り物ではない。
だが、奇妙なことに...
酔わない。
普通なら確実に気分が悪くなる揺れ方なのに。
「なんか...」雪乃がつぶやく
「うん...」言いたいことは分かる。
揺れは酷い。酷いのだが、どこか現実感が薄い。
重力の効き方が、どうも曖昧なのだ。
身体が完全に振り回されているはずなのに、致命的な不快感に至らない。
「この世界...いろいろおかしくない...?」何かが変だ
「今さら...?」雪乃の声に、かすかな苦笑が混じっている
不意に振動の質が変わる。
「あれ...?」揺れが弱まる
いや、違う。
足音が変化している。
今までずっと味わってきた雪を踏む鈍い沈み込みではない。
硬い。乾いた。
ゴツン。ゴツン。音が変わった。
「硬い...地面?」雪乃と同時に気付く
そうか、さっき遠くに見えた白と黒の境界の先に来たんだ。
次の瞬間。
マント袋の口が開いた。
光。眩しい。
思わず目を細める。
そこに広がっていた光景は、白ではない。
雪ではない。
大地。
黒っぽい岩肌。むき出しの地面。
そして...
緑。
今までうんざりするほど見てきた雪原とはまったく別の世界。
苔のような深い緑。低木。湿った空気。
岩の隙間から立ち上る薄い湯気。
雪乃もマント袋から顔を出して新しい景色を見ている。
その姿は、鳥の巣のヒナ鳥を思わせる。
横顔がちょっと子供っぽくて可愛い。
しかし...寒い。
だが、雪原の寒さとは違う。刺すような冷気ではない。
湿り気を帯びた冷たさ。
肺の感触が違う。
「谷...?」視線を巡らせる
そこは、巨大な岩壁に囲まれた窪地だった。
吹きさらしの平原とは明らかに異なる地形。
そして何より...
「水か?」
岩の奥。細く流れる水脈。
凍っていない。
雪原の気温を思えば別世界。
さらに、なんと...
水面から立ち上る白い蒸気。
「おぉ...」この湯気は...「温かいのかな?」
トールがしゃがむ。
俺たちはマント袋から降りた。
やはり、地面は硬い。やっとまともな地面に立った。
何歩か感触を試してみる。
いいね、この踏み応え。
そして、恐る恐る近づく。湯気の立ち上る水辺へ。
指先を伸ばす。
水面に指を入れる。
「お〜っ!」
なんだ、暖かくはない。湯気が出てるのに。
だが...
凍り付く冷たさではない。
確かに液体。確かに水。
雪乃もそっと手を差し入れる。
そして目を見開いた。
「ぬるい!」驚いている。
確かに理解が追いつかない。
この気温で、この環境で、水は凍るような冷たさになっていない。
背後から、あの呆れた声。
「だから言っただろう」ロキだ
いつの間にか岩の上に腰掛けている。
相変わらず出現の仕方が気持ち悪い。
「この世界は一定ではない」さらりと言う
「場所ごとに理が違う」よくわからない事を言っている
トールは特に気にした様子もなく、ずんずん谷へと踏み込んで行く。
「休むぞ」即断
だが...確かに、ここは雪原より圧倒的にマシだ。
風が遮られている。地面が露出している。
そして、湯気。
水脈の周囲だけ、わずかに空気が柔らかい。
「助かった...」本音が漏れる
「うん」雪乃も深く息を吐いてうなずいた
緊張が解けたのか、肩の力が目に見えて抜ける。
白しか存在しなかった世界の中で、初めて色のある風景。
緑。黒っぽい岩。水。
それだけで気持ちが安らいでくる。
「なんか...」雪乃が周囲を見回す「ちょっと安心するね」
完全に同意。
色がある景色、それだけで人間の心はここまで楽になるのか。
だが...その穏やかな空気の中で、ロキだけがなぜか意味ありげに笑っていた。
「長くは続かぬぞ」ぽつりとつぶやく
嫌な言い方だ。




