表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/16

第9話 志乃という女

 祇園の路地を抜けると、夜の冷たい空気が肌を刺した。


 私は足音を消した。

 石畳の路地を抜け、門をくぐる。


 体は“帰り道”を覚えていた。


 自分の意志ではない。

 志乃の足が、勝手に帰る場所を選んでいる。


 (帰ったら)


 頭の隅で声がする。

 帰ったら、また“あの部屋”だ。


 それでも足は止まらない。

 掌の奥で、何かがうっすらと脈打っている。


 ドクン。


 一度だけ。

 確かめるように。


 私は掌を握りしめ、立花の門をくぐった。


 廊下は暗かった。


 足音を立てずに部屋へ滑り込む。

 息を吐くと、喉の奥が震えた。


 (気づかれていない……よね?)


 ふっと一息つこうとした瞬間、

 ——行灯の明かりの下で、藤が振り返った。


 その顔は青ざめている。


 「……お志乃さま」


 声は小さい。

 しかし、その小ささにすべてが込められていた。


 私は布団に近づく前に、藤の顔を見た。


 「……旦那さまは」


 「お戻りです」


 たった三文字。

 その言葉だけで、部屋の空気が変わった。


 藤の肩がこわばる。

 私の指先は冷たくなった。


 すると足音が、廊下の板の上を一歩一歩、確かめるように近づく。

 やがて部屋の前で止まった。


 息を止めると、部屋が急に狭くなった。


 紙が静かに擦れ、障子が少しだけ開く。


 隙間から見えたのは、男の顔ではなく、袖口だった。

 濃い色の着物に、無駄のない動き。


 衣擦れの音が小さく、音を立てないことに慣れている。


 そして、低い声が落ちた。


 「志乃。……また、八坂へ行ったのか?」


 問いかけの形をしているが、質問ではない。

 確認でもない。


 ——私は今から裁かれる。


 私は声を出せないまま息を吸う。

 しかし息を吸うと、喉が詰まる。


 (だめ)


 頭の中で声がする。

 しかし体は違う反応を返した。


 怖いのに、どこか懐かしい。


 「……旦那さま」


 藤が小さく頭を下げた。

 その姿が私の胸をざわつかせた。


 私は藤ほど深く頭を下げられない。

 いや、うまく下げる方法がわからない。


 男が部屋に入る。

 目の前の畳がかすかに沈み、私は顔を上げた。


 年は三十歳前後だろうか。

 背が高く、痩せすぎてもいない。

 

 髪はしっかり撫でつけられていて、目は冷たい。


 人を見ているのに、私を見ていない。


 役に立つかどうか。

 それだけを測る目。


 その目が私を捉えた瞬間、背筋がぞくっとした。


 私はこの男を知らない。

 なのに、志乃の身体は知っている。


 視線の意味、声の温度、距離の感覚。

 反射的に肩が固くなる。


 「熱は?」


 男は藤に尋ねた。

 私ではなく、藤に。


 「朝からずっと……少し下がりました。でも、まだ熱っぽくて」


 藤の声が震えている。

 男はそれを咎めず、短くうなずく。


 「医者は呼んだのか」


 「……はい。でも、旦那さまのお帰りを待ってからがよいかと……」


 男の眉がかすかに動いた。

 苛立ちか、何か別の感情か。

 判断できないほど小さい動き。


 「次からは、勝手に呼べ」


 声は低いまま、命令だけが残る。


 藤は「はい」と答えた。

 その答えを聞いても、男の表情は変わらない。


 男は私に視線を戻した。


 「志乃」


 名前を呼ばれる。

 その途端、私の胸の奥が、きゅっと鳴った。


 詩乃としての私なら、即座に言い返していただろう。


 「あなた誰ですか」

 「ここはどこですか」

 「私はどうなっているんですか」


 でも志乃が先に答えを作る。

 口を開く前に、うなずく角度まで決めてしまう。


 私は、その“自分でない感覚”が怖い。


 「……はい」


 声が出た。

 なのに、自分の声ではない気がする。


 男は私の額に手を伸ばした。

 触れる寸前、私はびくっと肩を揺らす。


 男の手が止まった。

 ほんの一瞬のことだった。


 「……何だ、その顔は」


 私は言葉を探した。

 探しているうちに、志乃の記憶が流れ込む。


 この男は、立花宗一郎。


 私の夫。

 陸軍省で働いていて、家の外の話は持ち込まない人。


 そして私は

 ——八坂志乃。


 嫁。

 ——その言葉が胸の奥に重く沈んだ。


 「……すみません。まだ、ぼんやりしていて」


 嘘ではない。

 すべてがぼんやりしている。


 私の名前やここでの役割でさえも。


 宗一郎は私の額に手を当てた。

 冷たい手だった。きっと仕事帰りの冷えた手なのだろう。


 「熱は……ありそうだな」


 ぱっと手を離す。

 心配しているようで、言葉は冷たい。


 心配、というより確認だ。

 壊れていないか点検するくらいのもの。


 私は着物の端を握りしめた。

 爪が畳に触れて、再び冷たさを感じる。


 「……昨日も、八坂へ行ったのか?」


 また同じ問い。

 八坂に何があるというのか。


 だが今度は、責める声の下に別の感情が混じっている。


 苛立ちと

 

 ——それ以上に、もっと重たい、どろりとしたもの。


 私の心臓が大きく跳ねた。


 八坂の階段。

 藤が怖がっていた階段。

 私の中の“私ではない記憶”が知っている階段。


 私は正直に答えるべきか、黙るべきかわからなかった。

 わからないのに、口は動く。


 「……行った、気がします」


 宗一郎の目が細くなった。

 怒っているのではない。何かを計算している目だ。


 「気がする、では困る」


 困るのは宗一郎の事情だ。


 そう思いたい、

 そう思うべきなのに、

 志乃の体は別の答えを知っている。


 八坂に行くことは、この家にとっての禁止事項。

 それを破ると、何かが起きる。


 何か。


 私の喉が、きゅっと鳴った。


 宗一郎は、藤に顎で指示を送る。


 「藤。薬湯を」


 「はい、すぐに」


 藤は慌てて立ち上がり、障子の外へと消えた。

 その背中は、まるで逃げるかのよう。


 部屋に残るのは、宗一郎と私だけになった。


 宗一郎は畳に座らず、

 立ったまま私を見下ろしている。


 その距離が息苦しい。


 私は小さく後ずさった。

 この男は夫で、私は妻。

 逃げ出したいのに、逃げられない。


 「志乃」


 宗一郎がもう一度私の名前を呼んだ。


 「八坂へ行くときは、必ず言え」


 必ず。

 言え。


 命令だ。

 けれど、その裏に“止めたい”という想いが感じられる。


 私は反射的に聞き返した。


 「……なぜですか」


 宗一郎の目が止まる。

 私がなぜと尋ねたのを意外に思ったようだ。


 その一瞬だけ、宗一郎の顔から冷たさが消えていった。


 入れ替わりに、苛立ちと

 ——困惑が現れる。


 「……忘れたのか」


 宗一郎の声が低くなる。


 「忘れた」


 その言葉に志乃が反応している。

 拒むというより、“認めるな”と訴えている。


 「忘れた」と認めたら、この家で生きられなくなる。


 「……すみません」


 また謝ってしまった。

 宗一郎は、ほんの少しだけ息を吐いた。


 「志乃」


 声が少し柔らかくなる。

 でも、逃げ道はない。


 「八坂へ近づくな」


 私は瞬きをした。


 胸の奥が震える。

 痛みや恐怖ではない。


 ——悼み。


 その言葉が浮かんだ。


 八坂へ近づくな。

 でも、私の中の“何か”は、八坂へ行けと言っている。


 私は喉の奥の詰まりを感じた。

 泣けない癖が、また働く。


 早く扉を閉めろ、と体が命じている。


 しかし今は閉まらない。

 匂いも、三味線の音も、雪の水滴すら、私を開かせようとする。


 宗一郎は私の反応を見ている。

 まるで答えを待っているかのように。


 私の“正解”はこれしかない。


 「……わかりました」


 その瞬間、自分の胸の奥で何かが割れた。


 理解したわけではない。

 何もわからない。


 それでも私は、夫に従う妻の言葉が言えた。


 私は、八坂志乃という女なのだ。


 宗一郎はそれ以上何も言わず、踵を返した。


 「……今日は、外へ出るな」


 障子が閉まった。

 同時に、私の胸の奥は反発している。


 出なければならない。

 八坂へ行かなければならない。


 それが、私の意志なのか、志乃の意志なのか。

 それとも、澪守の意志なのか。


 私は布団の中で、掌を見つめた。


 白い手。細い指。

 その手が、私の“人生”を握っている。


 そして私は、初めてこの世界の恐ろしさを理解した。


 私は「転生」したのではない。

 私は「妻」になっている。


 ——逃げられない形で。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

明日は21:30頃の更新予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ