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悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


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第8話 一族の秘密

 「八坂の……」


 そこで、男の声がわずかに低くなった。

 冗談でも、商売口調でもない。


 「……澪守(みおもり)さん」


 世界が、一瞬止まった気がした。


 澪守。

 その言葉は、胸の奥の膜を叩く。

 薄い膜が震えて、閉じていた扉の蝶番が、ぎし、と鳴る。


 私は一歩後退った。

 けれど足の裏が石畳に縫い付けられたみたいに動かない。


 男は笑っている。

 笑っているのに、目が笑っていない。


 周りの女たちは、こちらを見ていないふりをした。

 見ていないふりをするのが、この場所の作法なのだとわかる。

 

 関わったら巻き込まれる。

 だから見ない。


 私は唾を飲み込んだ。


 「……何の話ですか」


 声が出た。

 出たのに、私の声は私の耳に遠い。


 男は秤の横の帳面を指先で軽く叩いた。

 帳面の紙が、かさ、と鳴る。


 「ここに書いてある。八坂の志乃さん。

 ——澪守の血筋」


 血筋。


 私は首を振った。

 そんなもの、知らない。

 私は高校で国語を教えているだけで……。


 そこまで考えた瞬間、喉の奥が詰まった。


 現代の自分を思い出すと、ここでは息がしづらい。

 思い出すな、と体が命じる。


 男は、私の混乱を楽しむように言った。


 「知らん顔はできひんよ。ここは感情の市場や。

 秤にかけたら、嘘も本音も重さでわかる」


 私はパッと秤の皿を見る。


 さっき、悲しみが雫になって落ちた。

 痛みが泥になって溜まった。


 あれは何だ。

 感情が、目に見える形になるなんて。


 男は声を落とした。


 「澪守はな、感情の"流れ"を見て、守る。

 ……売り買いの裏で、勝手に流れが変わらんように」


 売り買いの裏。

 流れが変わる。


 私の胸が、どくん、と鳴った。

 心臓の鼓動ではない。もっと別の拍。


 私は理解してしまう。

 この世界では感情は通貨だ。だから流れがある。

 流れを誰かが変えれば、街の空気ごと変わる。


 「……私は、澪守じゃない」


 言い切りたいのに、言い切れない。

 私がいままで感じてきた"匂い"も"鐘"も"三味線"も、その流れの音だと思えば、辻褄が合う。


 男は肩をすくめた。


 「ほな、何でここに来た?

 痛みの匂いに惹かれたんやろ」


 私は息を止めた。


 匂い。

 この男は、私が"匂い"でここへ来たことを知っている。


 私の背中が冷えた。


 「……あんた、誰」


 男は笑った。


 「名乗るほどのもんやない。……ただの仲立ちや」


 仲立ち。

 売り手と買い手の間に立つ者。


 「けど、志乃さん。

 あんたみたいな人が、ここを素通りしたらあかん。

 いま、痛みが高い。高すぎるんや」


 男はそう言って、皿の上の黒い泥を指さした。


 「これ、見てみ。

 ——痛みだけ、妙に重たいやろ」


 私は皿を見た。

 黒い泥が、どろりと溜まっている。


 その黒の奥で、何かが渦を巻いている気がした。

 ただの"痛み"ではない。誰かの意図が混じっている。


 胸の奥が、きゅっと鳴る。


 私は一歩、秤に近づいた。

 近づくほど、体が震える。


 男がさっと手を出して、私を止めた。


 「触れたらあかんで。

 澪守の"眼"が開いてしまう」


 眼。


 私は男の手を振り払いたくなった。

 でも振り払えない。


 「……開いたら、どうなるん」


 「見えるようになる。流れがね。

 ——誰の悲しみが、どこへ行って。

 誰の怒りが、どこへ買われて。」


 男は少しだけ笑みを消した。


 「そして、痛みがどこに溜められてるか、も」


 私は喉の奥が痛くなった。


 溜められている。

 痛みが。


 私が現代で失った三年分の痛み。

 それがどこかに行ったという感覚とつながった気がした。


 私は目を閉じる。

 

 白いライト。

 次に、黒板の「悼」。

 そして雪の夜の祇園。


 開けると、目の前に秤。

 黒い泥。

 銭の音。


 「……澪守って、何」


 声が震えた。

 震えているのに、涙は出ない。


 男は、少しだけ遠くを見る目をした。


 「八坂の家はなぁ……

 祇園さん——八坂さんの側で、昔から"流れ"を守ってきた。

 祇園は、祭のための町や。祇園さんがあるから祇園や」


 男は続ける。


 「祭のとき、人の感情は揺れる。

 喜びも悲しみも、怒りも、ぜんぶ流れる。

 その流れが壊れたら、街は病む。

 せやから澪守は、"澪"を守る。人の心の水路を守る」


 私は、胸の奥が痛くなった。


 水路。

 澪。

 流れ。


 私が封じたはずの感情が、ここでは水のように扱われている。

 私はそれを、ただ美しいとは思えなかった。


 男はふっと笑って、私を見た。


 「志乃さん。

 八坂の家の蔵、知ってるやろ。

 ——あれは"痛み"を納める蔵や」


 蔵。


 私は首を振ろうとして、止まった。

 知らない。

 知らないはずなのに、背中がぞわっとする。

 あの匂いが濃くなる。


 湿った木。

 線香。

 黒い水。


 そんな映像が、勝手に浮かぶ。


 私は息を大きく吐いた。

 それは湯気のように白く立ち上る。


 「今日は帰り。

 ここで倒れられたら、あんたの旦那が面倒やわ」


 夫の存在が出た瞬間、私の顔は固くなった。

 この男は、私の"家"の事情まで知っている。


 「……あなた、何を知ってるの」


 男は答えない。

 代わりに、帳面をパタンと閉じた。


 「志乃さん。次に来るとき、銭はいらん。

 その代わり——」


 男は、秤を指さした。


 「自分の痛みを売ったらあかん。

 売ったら、あんたは"悼めん"ようになる。

 これは忠告でもあり、警告でもある」


 悼めん。


 その言葉が、私の喉を締めた。


 私はもう、悼めない。

 現代で、あの子を悼めなかった。

 悼むという言葉を、追い払ってきた。


 それでも、ここでは。

 ここでは、悼むことが"守るべきもの"として扱われている。


 私は秤を見た。

 黒い泥の中に、渦が見えた気がした。


 渦は、こちらを見ている。


 ——お前の痛みを寄こせ、と。


 私は一歩、後ずさりした。


 帰らなければ。

 夫に気づかれる前に。


 でも、帰ったら。

 私はまた"弱い嫁"の部屋に戻るだけだ。


 私は息を吐いた。

 息の白さが、石畳の上でほどける。


 男が小さく言った。


 「八坂の志乃さん。澪守は逃げられへんのや。可哀想やけどな」


 私は唇を噛んだ。

 

 逃げられない。

 可哀想。

 

 怒りなのか悲しみなのか。

 後悔なのか屈辱なのか。


 とにかく心が揺れたのは明らかだった。


 「……蔵って、どこにあるん」


 男の目が、ゆっくり細くなる。

 笑っているのに、笑っていない目。


 「——やっと、聞いたな」


 男は、祇園の路地の奥を顎で示した。


 「帰り道にある。せやけど、今日は行ったらあかん。

 見たら、戻れんようになるからな」


 そう言い残して、男は人だかりの中へ消えた。


 私はその背中を見送りながら、ふと思った。

 

 この男は

 ——どちら側にいるのだろう。


 息を吐いた。

 その白さが、石畳の上でほどける。

 

 私は掌を握った。

 澪守は、この世界にはないはずなのに。

 でも、掌の奥で何かが微かに脈打った気がした。


 ドクン。


 目を閉じる。


 黒板の「悼」。

 母子手帳の空白。

 祇園の雪。


 そして、秤の上の黒い泥。


 私はもう、戻れない場所に立っている。

 現代にも。大正にも。

 "志乃"と"詩乃"の間の、継ぎ目にいる。


 次に目を開けたとき、私は確信していた。


 私の痛みは、私だけのものではない。

 流れている。


 誰かの元に、集められている。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークしていただけると励みになります。

次回も20:30更新予定です。

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