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悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


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第7話 黒い雫

 私は足が止まった。


 悲しみ。

 いま、あの男は"悲しみ"と言った。


 人だかりの中の女が、ふらふらと前へ出た。

 女は薄い着物を着ていて、目が落ちくぼんでいる。

 眠れていない目だった。


 男は女の手を取らない。

 ただ秤の皿を指さした。


 「ここへ手ぇ置いて。そう。……深呼吸」


 女が皿に手を置く。


 その瞬間、私は確かに見た。


 皿の上に、何かが落ちる。

 水滴のような、黒いもの。


 黒い雫が、ぽとり、と皿に溜まっていく。


 雫は水なのに、光を吸う。

 湿っているのに、乾いて見える。


 私は息を止めた。


 ——感情が、見える?


 私の目がおかしいのか。

 それとも、この世界がおかしいのか。


 男は分銅をひとつ、皿の反対側へ置いた。

 秤が、ゆっくり傾く。


 女の手から、また黒い雫が落ちる。

 落ちるたびに、女の顔が緩んでいく。


 男はにこやかに言う。


 「そやね……これくらいやったら、二十銭でどう?」


 二十銭。


 私は知らないはずなのに、その単位の生々しさがわかった。

 安い食事処であれば、一食十銭足らずで腹を満たせる額だ。


 女が頷く。

 まるで借金の証文に印を押すみたいに。


 男は懐から銭を出し、女の掌に置いた。


 銭は、音を立てた。

 ちゃり、と。


 女は銭を握って、笑った。


 笑ったのに、目は笑っていない。

 笑顔だけが浮かぶ。


 その笑顔が、私の胸を刺した。


 (それ、売っていいの?)


 悲しみは売れるのか。

 売ったらどうなるのか。


 私は現代で、悲しみを"封じた"。

 売ったわけではない。

 でも結果は似ている。


 泣けない。悼めない。

 空白だけが残る。


 私の喉の奥が詰まった。


 男の横に、帳面を持った若い者が立っている。

 若い者は女の名前らしいものを書き、横に数字を書いた。


 その帳面の端に、私は見えた気がした。


 「喜」

 「怒」

 「哀」

 「楽」


 それぞれに、相場のような数字がある。


 私は背中が冷たくなった。


 ——ここは取引所だ。


 市場。

 感情の市場。


 ここでは喜びも悲しみも、怒りも、貨幣に換えられる。

 秤で量られ、分銅で値が決まる。


 私は知らないのに、理解してしまった。

 理解してしまうことが、怖い。


 人だかりの中で、次の女が前へ出た。

 女は子どもを背負っている。


 男が言う。


 「痛みは、どうします? 痛みはね、いちばん高いんよ」


 痛み。


 その一言で、私の胸の奥の膜がびくっと震えた。

 閉じていた扉の蝶番が、ぎし、と鳴る。


 私は反射的に後ずさった。


 (だめ)


 痛みはだめだ。

 痛みは、私の中で唯一"本物"だった。

 それだけは売ってはいけないとわかる。


 なのに、女は頷いた。


 「……お願いします。もう、耐えられへん」


 男は優しく笑った。


 「そらそうや。痛みは重たいからねぇ」


 女が皿に手を置く。


 その瞬間、

 ——空気が変わった。


 黒い雫ではない。


 もっと濃い。

 もっと重い。


 どろりとした黒が、皿に落ちる。


 それは水なのに、泥のようだった。

 泥なのに、どこか涙に似ている。


 私は喉の奥が痛くなった。

 現代で味わった"あの痛み"が、目の前に形を持って現れている。


 男は分銅を置く。

 秤が、ぐんと傾く。


 「……これはええ値になりますよ」


 女の肩が、すうっと落ちる。

 背負われていた子どもが、きょとんとして母の顔を覗き込む。


 母は笑った。


 笑った。

 けれど、その笑顔には、何もない。


 嬉しくないのに、口角だけが上がっている。

 痛みを失った顔。


 私は息を呑んだ。


 (それは、救いじゃない)


 救いに見えるだけだ。

 痛みは、悼みだ。

 悼めない世界は、人を壊す。


 私は手のひらをぎゅっと握りしめた。


 そのとき、背後で誰かが言った。


 「……あんたも売るん?」


 私は振り向いた。


 そこには年配の女がいた。

 

 おでこに深い皺がある。

 けれど、私を見る目だけは鋭い。


 「え?」

 「その顔。持ってる顔やな」


 女は私の胸元を指さした。

 もちろん、私の胸元には何も出ていない。


 でも女は言った。


 「痛み。……えらい値ぇつくで」


 私は咄嗟に首を振った。


 「売りません」


 言い切ると、女は意外そうに眉を上げた。


 「ほな、何しに来たんや」


 何しに来た。

 私は答えられない。


 答えの代わりに、胸の奥が震える。

 ここに来たのは私の意志じゃない。

 志乃の意志だ。


 私は、人だかりの中心を見た。


 秤の上の黒い泥。

 帳面の数字。

 銭の音。


 そして、男の目。


 朗らかで優しい目。

 なのに、その奥が冷たい。


 ああ、奪っている目だ。


 私は、足が勝手に前へ出るのを感じた。

 やめろ、と頭が言う。

 でも体が言う。


 見ろ。

 ここが、お前の"痛み"の流れ先だ。


 私は一歩前へ出た。


 男がこちらを見て、にこやかに言った。


 「お嬢さん……えらい苦労してはりそうですねぇ。どうです? 

 ——少しだけ、軽くしましょうか」


 その言葉を聞いた瞬間、私の掌が熱くなった。


 持ってきていないはずなのに。

 澪守は、この世界にはないはずなのに。


 でも掌の奥で、確かに何かが脈打った気がした。


 ドクン。


 私は息を止めた。

 これは夢じゃない。

 現代だけが現実じゃない。


 この世界は、私の痛みを値踏みする。


 私は、値踏みされるためにここへ来たのではない。


 私は、ここで何かを守らなければならない。


 ——痛みを。


 私はそう思った瞬間、秤の前の男が、ふっと笑みを深くした。


 「……やっぱり」


 小さな声。

 周りのざわめきの中で、私にだけ聞こえる音量だった。


 男は私の顔をじっと見た。

 目が合った瞬間、背中が冷たくなる。


 「お嬢さん」


 呼びかけの形は丁寧なのに、距離は一気に詰まった。

 男は帳面を一度だけ見て、確認するように頷いた。


 「——志乃さん、やね?」


 私の喉が、きゅっと鳴った。


 なぜ。

 どうして、この男が私の名を知っている。


 私は一歩、後ずさった。

 けれど足の裏が石畳に縫い付けられたみたいに、逃げられない。


 男はにこやかに続けた。


 「八坂の……」

ここまで読んでくださりありがとうございます。

明日も20:30更新予定です。

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