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悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


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第4話 祇園の雪の夢

 ポーチの澪守が、とくんと脈打った。

 倒れるより——引かれる感覚。


 細かなひび割れ模様の天井が遠ざかり、代わりに暗い色がにじんでくる。

 黒でもない。闇でもない。古い木の色。煤けた紙の色。


 息が詰まる。

 喉が締まる。


 それでも、匂いだけは先に来た。

 白粉と、線香と、湿った木。

 懐かしいはずのない匂いなのに、私の体は"知っている"と反応する。


 私は目を開けた。


 ――雪?


 白い粒が、夜の空から落ちてくる。

 落ちるというより、静かに置かれていくよう。

 世界が少しずつ音を失い、白に包まれていく。


 私は濡れ縁に腰掛けていた。

 

 目の前の細い路地は石畳。

 雪が薄く積もり、踏めばきっと、きゅ、と鳴りそうだ。


 ああ、祇園だ。


 そう思った瞬間、喉がひゅっと鳴った。

 

 なぜわかるのか。

 わからないのに、わかってしまう。


 私は手を伸ばした。

 雪を掴もうとした。


 指先に触れた白は、冷たい。

 冷たすぎて、皮膚が少し痛む。


 痛む。

 痛い。


 ――痛い、という感覚が、ここにはある。


 私の生活から抜け落ちていたものが、突然戻ってくる。

 それは救いのようで、怖かった。


 「……寒い」


 声が出た。

 自分の声なのに、少し違う。


 私は息を吐いた。

 白い息が、ふわりと浮かぶ。


 夢なのに、息が白い。

 夢なのに、指先が凍える。


 夢のくせに、雪が溶けて濡れる。


 私は自分の手を見た。


 白い。細い。爪の形が違う。

 私の手じゃない。


 喉の奥が鳴る。

 怖い。

 怖いのに、体は妙に落ち着いている。


 ここに"戻ってきた"みたいに。


 遠くで三味線が鳴った。

 障子の向こうで弦をつまびく、あの音。

 音が空気を震わせて、私の胸の奥を指でなぞる。


 私は足を動かした。


 草履の感触がある。

 足袋が足を包む。冷えが布越しに伝わる。


 勝手口から路地に出ると、雪が頬に当たった。

 溶けて、水になって頬を滑る。


 その水滴が、なぜか悲しい。


 私は「悲しい」を慌てて押し込めた。

 悲しんだら、泣いてしまう。

 泣いたら、戻れない。


 ……戻れない?


 私は立ち止まった。

 戻るって、どこに戻るの。

 ここは夢なのに。


 道の先に灯りが見えた。

 行灯の淡い光。障子越しの橙。


 その光のところに、人影がある。


 女の子だった。

 髪をきっちり結い、薄い羽織を肩にかけた女の子が、雪を避けるように軒下に寄ってこちらを見ている。


 私と目が合った瞬間、女の子は目を丸くした。


 ――藤。


 声に出していないのに、名前がわかる。

 私の知らない記憶が、私に流れ込む。


 藤が駆け寄ってきた。


 「……志乃さま!」


 その呼び方に、胸の奥が震えた。

 私の名前ではない。

 でも、私の体が答える。


 「藤……?」


 藤は私の袖を掴んだ。指先が冷たい。


 「また、外に出て……足、冷えるでしょ。こっち、()よう」


 私は藤に引かれるまま、格子戸の内側へ入った。


 途端に、匂いが濃くなる。

 湿った木。畳。線香。

 そして、炭の匂い。


 火鉢だろうか。どこかで炭が赤く熾っている。

 暖かさが、皮膚から骨に染み込む。


 私は思わず、息を吸い込んだ。


 その瞬間、また鐘が鳴る。


 ごん。

 ごん。


 雪の夜の空気の中で、鐘は重く響いた。

 胸の奥のなにかが、それに応える。


 藤が私を座敷へ押し込む。

 障子が閉まる。外の白と切り離される。


 座敷は薄暗い。

 障子越しの光が柔らかい輪郭を作り、畳の目が見える。


 私は座った。

 座った瞬間、膝の位置が"しっくり"来た。


 しっくり来ることが、怖い。


 藤が白湯を持ってくる。

 椀の湯気が、私の頬に触れた。


 私はそれを受け取った。

 熱い。現実だ。


 「志乃さま、今日のこと……」


 藤の声が小さくなる。

 怖がっている。


 私も、怖い。


 「今日って……」


 言いかけた瞬間、廊下の向こうで足音がした。


 硬く、迷いのない足音。

 こちらへ向かってくる。


 私は息を止めた。

 藤の肩が跳ねる。


 「……旦那さま」


 空気が冷える。

 雪とは違う冷え方。


 足音が、障子の前で止まった。


 紙が、すうっと擦れる音がする。

 扉が開く——その寸前。


 私はなぜか、知っていた。

 その声が、私を"志乃"に戻すことを。


 「……また、八坂へ行ったのか?」


 低い男の声が耳に触れた瞬間、世界が裏返った。


 *


 「上原先生?」


 誰かが私の肩を叩いた。

 私は息を吸った。


 冷たい空気。

 保健室の匂い。消毒液ではないけれど、薬品の薄い匂い。


 私は目を開けた。


 保健の先生が心配そうに覗き込んでいる。

 カーテン越しに、夕方の光が差している。


 「うなされてたで。大丈夫?」


 うなされてた。

 私は夢を見ていた。


 夢。

 そうだ、夢だ。祇園の雪なんて、ありえない。


 私は頷こうとして、言葉が出なかった。

 喉が渇いている。


 保健の先生が白湯を持ってきてくれた。

 私は受け取って、一口飲んだ。


 熱い。

 それだけで、少しだけ現実が戻る。


 夢だった。

 大正十二年も、藤も、旦那さまも。

 全部、夢。


 そう思った瞬間。


 掌が、冷たい。


 マグカップを置き、自分の手のひらを見た。

 水滴がついている。


 小さな水滴。

 汗ではない。汗の匂いがしない。


 私は指で拭った。

 水は、ひんやりしている。


 ――雪解けの水みたいに。


 背中がぞわっとした。

 私は慌てて自分の膝の上を見る。


 制服のスカートの上に、細い糸が一本落ちていた。

 白でも黒でもない、淡い色。

 絹糸みたいに、つやがある。


 私は指先でそれを摘まんだ。


 軽い。

 なのに、指に残る。


 私は息を止めた。

 心臓が一拍遅れて跳ねる。


 夢なら、残らない。

 夢なら、こんな"物"は持ち帰れない。


 私は糸を見つめたまま、喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。


 その時、ベッドの脇でなにかが光った。

 教科書とチョークホルダーとポーチにつけた澪守。


 私はゆっくりとお守りに触れた。

 指先が震える。


 とくん。


 透明な玉が、指の腹に小さく押し返してくる。


 私は息を呑んだ。

 夢ではない。


 ――私は、もう戻れない場所に足を踏み入れている。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークしていただけると励みになります(次回も20:30更新予定)。

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