第3話 泣けない国語教師
職員室の空気は、いつも同じ匂いがした。
紙とインク、プリンターのトナー。
そして冬になると、誰かのカイロの匂いが混ざってくる。
私はこの匂いが嫌いじゃなかった。むしろ、安心する。ここは病院でも手術室でもない。白いライトも金属音もない。
「上原先生、今日の3限、2年の古典だったよね」
教頭が机の横を通りながら声をかけてきた。
「はい。『徒然草』です」
私はとっさに答えた。
「無理しないでね」
隣の席の先生が、やさしく笑いながら声をかけてくれる。
私は笑ってうなずいた。その一瞬だけで、私はちゃんと“元気な先生”になれた。
無理してるように見えるのだろう。それはその通りで、正しい。実際、無理をしている。でも私は、無理している自分を責めないことにした。教壇に立てるなら、それは生きているということだから。
机の上には赤ペンと、冬休みの課題として提出された作文の束。テーマは「私の一年」。
私は束の一番上をめくる。
――今年は、彼女ができました。初詣に行って、おみくじは凶でした。
行間から、16歳の生活の匂いがする。
大きな声で笑うクラスの雰囲気。
放課後の部活動。
コンビニのピザまん。
スマホの通知音。
私は赤ペンで丸をつけた。「凶」の文字が少しだけ乱れている。そこに、この子の感情がにじんでいる気がした。
次の作文に目を通す。
――祖母が亡くなって、家の空気が変わった。父は強がっていた。母は、泣けないと言っていた。
私は赤ペンを止める。
「泣けない」その言葉が、胸に引っかかる。
私はふうっと息を吐いて、作文の続きを読んだ。生徒のお母さんが「泣けない」理由。それは「子どもの前で泣いたらいけないと思ったから」だった。
私は余白にそっと短く添える。
――「泣いてもいい」と思える日が来ますように。
書き終えてから、自分で自分に驚いた。こんなことを書けるのか、私は。
私はまだ“泣けない”ままなのに。
プリンターの音、誰かの笑い声、予鈴のせかせかとした空気が職員室を満たしていた。私はペンを置き、作文の束を閉じた。
立ち上がった瞬間、何かが触れる。
――お守り。
昨日、京都で授かったもの。
目を閉じると、なぜか「澪守」という文字が浮かぶ。
私は、ポーチにつけたお守りの感触を確かめた。冷たい。いや、今日は冷たいだけだ。
生きているかのように脈打つことはない。私はほっとして、そのまま手を離した。
ほっとしてしまったことが、少し嫌だった。私は何を期待しているのだろう。
*
2年3組の教室。扉を開けると、暖房の熱、制服の匂い、柔軟剤の香りが一気に押し寄せた。
「起立」
「礼」
生徒たちの声が揃う。そのなんとなく揃う感じが、私には少し眩しい。
私は教卓にプリントを置き、黒板にチョークを当てた。指先に白い粉がつく。
(白)
視界の隅に、手術室の白がちらつく。
私はその連想を、板書で押し潰した。
字を書く。
字を書く。
字を書けば、私は先生でいられる。
「今日は徒然草の序段から。教科書30ページ開いて」
教室の空気が少し緩む。
古典の時間は眠くなるという顔が、並ぶ。
「『つれづれなるまゝに、日くらし、硯すずりにむかひて』。今でいうなら、暇だからスマホを触っている、そういう状態かな」
何人かが笑った。私はその笑いに、わずかに救われた。
「『心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』。心に移っていくもの――つまり他愛のないことなんだけど、心が動いたこと……」
心が動く。
――私は、それができない。
胸から背中にスッと風が突き抜けた。胸に穴はないけれど空洞を感じる。
その空洞に、生徒の視線が集まっているようにも思う。
私は笑顔で授業を続けた。
「えっと……要するに、思いついたことを自由に書くということです。今で言うとブログのような感じかな。みんなの中で、ブログやっている人いる?」
「先生、ブログは古いわ〜……今は動画かAIでしょ」
私が「確かにね!」と言うと、また笑いが起きる。
和やかな雰囲気で進む授業。自分は“上手にやれている”はず。私は“先生”の顔をしている。
でもその上手さが、どこか怖い。泣けないまま、うまく笑えてしまう。
「では、ここ。『あやしうこそものぐるほしけれ』。どんな意味だと思う?」
前の席の男子生徒が答えた。
「変やけど……逆になんか面白くなってきた、みたいな?」
「うん、いいね。変なのに、なぜか心が動く。そんな感覚かな」
心が動く。
私の心は動いていない。動いていないのに、その“動く”を説明できてしまう。
説明できることは教師としては正しい。でも、人としては間違っている気がした。
授業は進む。
プリントの穴埋めに現代語訳。
作者の視点。
私はいつものように指名し、板書をした。生徒のノートに文字が増え、時間が流れていく。
「じゃあ最後。今日の小テストは序段の空欄補充。5分でね」
「えー」
「うそやん」
「鬼や」
これもお決まり。いつものブーイング。
私は笑って受け流した。
その瞬間。
視界の端が、ふっと暗くなった。
輪郭がぼやけ、黒板の白がにじみ、生徒たちの顔が遠のく。
私はチョークを置いた。手が震えている。
(大丈夫)
自分に言い聞かせる。言い聞かせた瞬間、喉がきゅっと締まった。
「先生?」
「大丈夫ですか」
生徒たちの声が遠くなっていく。
胸の奥で、鐘の音が鳴った気がした。
ごうん。
耳じゃない。体の奥から鳴る音。
私は教卓に手をついた。
倒れたらだめだ。倒れたら、また迷惑をかけてしまう。
――お守り。
掌が、勝手にポーチへ伸びた。触れた瞬間、澪守が脈打った。昨日の冷たさが、なぜか頭をよぎる。
ドクン。
私の鼓動と重なる。
いや、重ならない。ずれる。
2つの拍が、別々に鳴っている。
ドクン。ドクン。
息が詰まり、教室の音が遠ざかる。
「ごめん」と言ったつもりだった。でも、声は口の中に消えてしまった。
視界が落ちる。床が迫る。
その瞬間、私は思った。
私はまた、“泣けない”まま、どこかへ行く。
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