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悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


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第2話 脈打つ澪守

 男の声が、障子の向こう側から低く響いた。


「志乃。……また八坂へ行ったのか?」


 問いかけの形をしていたが、ただ事実を確かめているだけだった。許すか許さないかを判断するための声。


 私は息を吸い込んだ。泣きたくても泣けないこの癖は、こんなときだけは助かる。


 目をぎゅっと閉じると、また違う匂いがした。

 半年ほど前から、私は「匂い」に敏感になった。


 消毒液。石鹸。ラテックス。それらが鼻に入ると、身体のほうが先に固まる。


 復職して間もない頃、職員室の入口で誰かが手指消毒をしただけで、喉がきゅっと縮んだ。私は笑って「最近、強い匂いが苦手になって」と軽口を叩いた。


 大丈夫。平気。その言葉を、私は口に出すのが上手になった。


 離婚して半年。手術を受けて、失った存在を胸の内に残したまま、紙の1枚で夫婦だったものを終わらせて。


 それでも仕事は待ってくれない。季節は巡っていく。生徒は私の事情なんて知らないし、知る必要もない。


 だから私は、普通の顔をした。普通の声で授業をし、板書して指名し、答案を返した。


「先生、これ合ってます?」

「大丈夫、合ってるよ」


 それだけの会話が、どれほどありがたいか。「先生」と呼ばれると、私はまだ社会の中にいると思えた。


 職員室で次年度の予定表が配られた日。誰かが「今年も早いなあ」と言い、私は笑った。けれど笑ったあと、急に胸の奥が空になった。自分の笑い声が、遠い。


 この場所にいると壊れそうで、逃げ道を探すみたいに指が動く。そのままスマホで「京都」と検索して、気づいたら明日の有休申請の画面を開いていた。理由欄には「私用」とだけ書いた。


 翌日。


 大阪から京都へ向かう電車の中で、私は自分の指先を見つめていた。爪の形がいつも通りで、なぜかほっとした。


 その「ほっと」が、どこかおかしい。私は何に怯えているのだろう。



 着いたのは昼過ぎで、空は低い。冬の雲が、街の上に蓋をしているみたいだった。


 京都へ行こうと思ったのは、衝動だった。


 私は人混みの輪郭から少し外れた場所を歩いた。歩きながら何度も考える。どうして京都なのだろう。どうして八坂神社なのだろう。


 答えは出ない。出ないままでも、足だけがそこへ向かってしまう。


 神社の境内は、思っていたより開けていた。鳥居をくぐると、空気が少し変わる。街の匂いが薄まり、木と土の匂いが増える。


 手水舎の水は冷たく、指先がじんと痛んだ。その痛みが、なぜか「生きている」感じがして、私はもう1度指先を見た。


 平気。平気だよ、と自分に言い聞かせる。


 拝殿の前に立って、私は手を合わせた。願いは、なかった。


 ないわけじゃない。でも、願いの形にすると、途端に崩れてしまいそうで。


 私は頭を下げて、それから顔を上げた。ちょうどそのとき、鈴の音がした。別の参拝者が鳴らした音が、境内の空気を揺らす。


 揺れた瞬間、胸の奥の扉がきしんだ。


 (悼む)


 言葉だけが浮かぶ。私はそれを追い払うように、授与所のほうへ目を向けた。


 お守りを買おう。理由はそれでいい。何か形が欲しい。形があれば、持ち帰れる。


 授与所は人が途切れず、けれど流れは早かった。


 並んでいる間、私は列の前の人たちをぼんやり見ていた。縁結び。厄除け。学業成就。健康。少なくとも、ここに並ぶ人たちは、みんな欲しいものがある。少なくとも私には、そう見えた。


 私は――何が欲しいのだろう。


 自分の番が来た。並んでいるお守りの中で、ひとつだけ目が離せないものがあった。


 淡い藤色の小さな巾着は、光の角度で少しだけ青くも見える。


 ――澪守。


 文字が水に浮かんで、揺れて見えた気がした。指先が無意識に巾着へ伸びていく。


「……これ、ください」


 声が出た。


 掌に乗せるとひやりとした。冬のせい?

 ――違う。布の冷たさじゃない。もっと内側に触れてくる冷たさ。


 私はお守りを握った。握った途端、なぜか指の腹が鋭く痛んだ。思わず手を開きかけたが、何かが零れてしまいそうで、ぎゅっと握り直した。


 授与所を離れ、境内を歩いた。私はお守りをバッグの内ポケットにしまった。


 しまったはずなのに、掌にまだ布の感触が残っている。指先が、しびれているみたいだった。


 八坂の石段を下りるとき、私はふいに足を止めた。


 (また、八坂へ行ったのか?)


 そんな声が、聞こえた気がした。もちろん、誰もそんなことは言っていない。振り返っても、周りにいるのは観光客だけで、私に向けた視線はなかった。


 私は息を吐いて、下り始めた。


 坂の途中で、風が吹いた。冷たい風が、頬を撫でる。


 その瞬間、匂いが変わった。


 白粉。線香。湿った木。


 ありえない。ここは現代の京都で、私はコートを着て、スマホを持っている。なのに、鼻の奥に、確かにその匂いが刺さった。


 私は立ち止まった。足が動かない。


 次に聞こえたのは、三味線の音だった。どこかで流れているBGMではない。もっと生の音。障子の向こうで、誰かが弦をつまびく音。


 私はバッグの内ポケットに手を入れた。お守りに触れた。


 冷たいはずだった布が、妙にぬるい。

 いや、ぬるいのではない。


 巾着の奥――透明な玉が、布越しに小さく脈打っている。


 とくん。とくん。


 指の腹に、柔らかい反発が返ってきた。

 私は息を呑んだ。鼓動が2つあるみたいだった。


 視界の端が暗くなる。世界がゆっくり傾く。


 慌てて手すりを探した。だが指先は空を掴むばかりで、石段の縁が遠い。


 私の耳に、鐘の音が落ちてきた。


 ごうん。ごうん。


 誰かが私の肩に触れた気がした。振り向こうとしても、首が動かない。


 視界が落ちる。


 落ちる瞬間、私は思った。これは気絶じゃない。過呼吸とは別の、引かれる感じがした。


 ――呼ばれている。


 どこか、遠い時代から。私の名ではない名で。そんな気がした。


「……志乃さま」

ここまで読んでくださりありがとうございます。

続きもぜひお楽しみください。

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