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悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


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第16話 悼みの抜け殻

 朝から気持ちが落ち着かない。


 空には薄く雲が広がり、日差しも弱い。

 昼を過ぎると、空気だけがゆっくりと冷えていく。


 藤は何も聞かなかった。

 私も何も言わなかった。


 言葉にしてしまうと、どちらかの覚悟が揺らぎそうだ。


 日が傾き始めた頃、私たちは立花の家を出た。


 藤は半歩後ろを歩いてくる。

 昨日より顔色は悪くなかった。

 それでも、袖口の下で指先をしっかり握っている。


 今日も市場を、気配から辿った。


 甘い匂い。

 銭の音。

 人のざわめき。


 昨日より早く見つかった。

 表向きはいつもと変わらない雰囲気だった。


 帳面係が私たちに気づき、すぐに笑顔を作る。

 今日も、あの違和感はなかった。


「志乃さん。よう来てくださいました」


 やわらかな声だった。


「昨日は途中でお帰りになったので、気になっておりました」


「少し考えたくて」


「そうでしたか」


 帳面係の視線が、私から藤へと移った。


「今日はお連れさんも」


「侍女です」


「それは結構なことです。体調がすぐれないときは、お付きの方がいると安心ですし」


 親切そうな声だった。

 その滑らかすぎる言葉が、かえって気味悪い。


「今日は奥でゆっくりしていかれませんか。ちょうど今、部屋が空いておりますので」


 私は少し迷うような顔を作った。


「……少し、考えさせてもらえますか」


「もちろんです」


 帳面係はその場を下がったが、視線は外さない。


 私は市場の中を歩き、仲立ちの男の姿を探した。


 いた。


 秤の少し後ろ、奥寄りに立っている。

 目が合うと、男はわずかに顎を引いた。


 来ている。

 今日は来ている。


 私は帳面係のもとへ戻った。


「……やはり、少し奥を見てから決めたいのですが」


 帳面係の笑顔が、一瞬だけ固まった。


 本当に一瞬だけ。


 すぐにまた笑った。


「もちろんです。こちらへどうぞ」


 奥の板戸へ向かいかけた、そのとき。


「あの」


 藤の声がした。


 帳面係が振り返る。


 藤は少しうつむき、袖口を握りしめていた。


「うち、こういうところに慣れてなくて……急に気分が悪うなってしもて」


 声がかすかに震えていた。

 けれど、倒れるほどではない。

 助けを求めるのに、ちょうどいい弱さだった。


「それはいけませんね。少し外へ――」


 帳面係の意識が、藤に向く。


 そのわずかな隙に、板戸の奥でかすかな物音がした。


 誰かが内側から、そっと木に触れたような音。


 帳面係の目が、わずかに細くなる。


 まずい。


 そう思ったとき、藤が一歩よろけた。


「藤っ」


 私は反射的にその肩を支えた。


 帳面係が手を伸ばしかける。

 その手が藤へ向いた瞬間、板戸がほんの少し開いた。


 暗がりの隙間から、仲立ちの男の目が覗いた。


 今だ。


「すみません、この子、少し外の空気を――」


 言い終わらないうちに、板戸の内側から低い声が落ちた。


「……(はよ)う」


 帳面係がはっとして振り向いた。


 その一瞬で、私は藤の手を引き、板戸の中へ滑り込んだ。


 *


 暗い。


 甘い匂いが、表の市場よりもずっと濃かった。

 飴でも蜜でもない。

 熟れすぎた果実のような、息苦しさまで感じる甘さ。


 背後で板戸が閉まる音がした。


 薄暗い行灯の下に、女たちが並んでいる。


 膝の上に手を重ね、背筋を伸ばし、静かに笑う。

 その顔は、みんな同じだった。


 お波もいた。

 壁際に座り、口もとだけやわらかくゆるめている。

 目はやはり止まったままだった。


 藤の手が震えた。


「……志乃さま」


「声、出さないで」


 私が囁くと、帳面係の声が板戸の外から聞こえてきた。


「……開けてください」


 さっきとは温度感がまるで違う声。


 仲立ちの男が、部屋の奥から現れた。


「こっちや。全員、出すぞ。歩ける(もん)から外へ」


「女たちに指示は通じますか」


「そんなん考えても無駄や。とにかく動かせ」


 男はお波の前にしゃがんだ。


「立てるか」


 お波は笑ったまま、ゆっくりと立ち上がった。


 他の女たちも同じだった。

 言われた通りに、ただ動く。


 怒りも戸惑いも、何もない。

 壊れているのではなく、何かが抜けている。


 帳面係が板戸を叩いた。


「お返事がないなら、開けますよ」


 男が顎で合図する。


「志乃さん、先に」


 私はお波の手を取った。

 冷たい。

 生きている手なのに、どこか重みがなかった。


 藤も、もう一人の女の手を取っていた。


 部屋の奥の、細い裏口。

 市場の裏へ抜けるための、小さな木戸へ走る。


 男が先に出た。

 そのあとにお波、私、藤、そして残りの女たちが続く。


 外の空気は冷たかった。

 息が胸に刺さるほど冷たいのに、ひどくほっとする。


 しかし、裏路地へ出たところで、前方に人影があった。


 帳面係だった。


 帳面係の口もとは上がっているが、目が笑っていない。

 これまで見たことのない顔だった。


「勝手なことされると困るんやわ」


 声色だけは、まだやわらかい。


「ちょっと……どいて」


 仲立ちの男が、女たちの前に立った。


「あなた、何してるんですか」


 帳面係の視線が男に向く。


(きょく)の規則、忘れたわけやないでしょう」


 男は答えなかった。


 沈黙がしばらく続く。


 そのあと、男が口を開いた。


「お前の帳面は見た。印がついた名前も、値も、全部な」


 帳面係の口もとが、かすかに動いた。


「……それがどうしたって言うんや」


「都合の悪い証拠が残っとる。局がそれをどう扱うか……お前の方がよう知っとるやろ」


 一拍だけ間があった。


 帳面係はゆっくりと笑う。

 でも今度の笑顔は、またずれていた。

 目より先に、口もとだけが上がった。


「……今日は引くけど、また来るわ……」


 そう言って、帳面係は一歩退いた。


 道が開けた。


 *


 路地に出ると、お波の母親が走ってきた。


 どこかで待っていたのだろう。


 お波の顔を見た瞬間、母親の動きが止まった。

 そのまま膝をつき、声もなく、ただ崩れる。


「お波……お波……」


 何度も名前を呼び続けた。


 お波は笑っていた。


「……どうしたん、お母さん」


「おばあさんのこと、覚えてるか」


 お波の顔が、少しだけ動いた。

 考えているような間があった。


「……おばあさん」


「そうや。あんた、大好きやったやろ」


「……さあ……どうでしたかね」


 母親が声を上げた。

 お波の手を握って、泣き声を上げた。


 お波はその手を、ただ見ていた。

 そして首をかしげ、また笑った。


 私は目を逸らした。


 仲立ちの男が隣に立つ。


「……お波は……戻らないんですか」


「すぐには無理や。時間が経てば少しは戻るかもしれんけど……全部は、わからん」


 路地の奥で、母親はなおも泣いていた。

 お波は笑ったまま、その涙を見つめていた。


 泣いていることは、きっとわかっている。

 けれど、なぜ泣いているのかは、わからない。


 痛みを売ったのではない。

 悲しみを売ったのでもない。


 悼む力そのものが、抜けてしまっている。


「……悼めへんから、人は壊れるんですね」


 男は黙っていた。


「痛いから壊れるんやない。悼めへんから壊れる」


「……そういうことや」


 男は少しだけ目を伏せた。


 藤が私の袖を引く。

 振り返ると、藤の目が濡れていた。


 何も言わない。

 ただ、袖を引いていた。


 私も何も言わない。

 藤の手に、そっと自分の手を重ねた。


 男が言った。


「あんたの敵は帳面係だけやない。今回の件で上が動く」


「……そうでしょうね」


「一人で動くな。それだけや」


 仲立ちの男は踵を返し、路地の角に消えていった。


 どこへ行くのかは聞かなかった。

 何者なのかも、まだわからない。


 わからないことが、まだたくさんある。


 それでも、今日やるべきことはできた。


 私は帰る道へ踏み出す。


 石畳の向こう、遠くの寺から鐘の音が響いた。


 ぼうん、と。


 腹の底に沈み込むような、低い一音。


 長い余韻が続き、やがて一月の冷たい空気の中に消えていった。

第一章、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

志乃の物語は、まだまだ続きます。

数日は投稿をお休みし、第二章に向けた加筆修正を行います。

またお会いしましょう。

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