第15話 脈打つ夜
「……局が動いとる」
男は路地の壁に背を預けていた。
腕を組み、少し上を見つめる。
空を見ているのではない。
まるで言葉を慎重に選んでいるような顔つきだった。
「局?」
男はすぐには答えなかった。
路地の先に目を向けたまま、顎のあたりをわずかに強張らせる。
「……なんのために」
男は眉をひそめた。
「それは言えん」
突き放すようでいて、ただ黙るのとは違う声音だった。
「でも警告しとく」
そのとき、男は初めて私をまっすぐ見た。
「澪守の血筋のあんた、狙われてるで」
冷たい風が路地を通り抜けた。
その言葉だけが、やけにはっきり耳に残る。
「……あなたは局の人間ですか」
男は何も答えなかった。
そのまま目を伏せる。
その沈黙は長く重いものだった。
「……奥の女たちを取り戻すことはできますか」
男はしばらく黙り込んだ。
「場合による」
「いつなら?」
「……明日の夕方。帳面係が奥に入る。その隙しかない」
「あなたは、そこまで知ってるんですね」
男は口元だけをかすかに動かした。
「知らんと助けられへんこともある。可哀想やけどな」
そう言って、男は踵を返し、路地の角へ歩いていく。
「待って」
思わず声が出た。
男は振り返らなかった。
「明日……来るんですか」
男の足が止まる。
「……その時次第や」
その言葉を残し、男の背中は角の向こうに消えた。
*
立花の家に戻ると、日はすでに傾き始めていた。
廊下を歩くと、台所から藤の気配が感じられる。
水の音、包丁の音。
どれも静かで、やけに澄んでいる。
私は部屋へ戻り、帯も解かずに座り込んだ。
明日の夕方。
帳面係が奥に入る、その隙。
そこしかない。
頭の中で何度も繰り返す。
戸の位置、帳面係が立つ場所、市場の女たちの様子。
考えれば考えるほど、一人でできることに限りがあると実感した。
それでも、藤を連れて行くつもりはなかった。
障子が開き、藤が夕餉の膳を運んでくる。
その顔はいつも通り。
でも、その目の奥には昨日の記憶が色濃く残っているようだ。
膳を置き、藤は一歩下がる。
「どうぞ」
「……ありがとう」
私がそう言うと、藤は下がろうとした。
「藤」
呼び止めると、藤が振り返った。
「昨日のこと、誰かに話した?」
「いいえ」
「そう」
藤は少し黙った。
「話せるようなことや、おへん」
その一言が胸に沈む。
夕餉の間、ほとんど会話はなかった。
箸の音だけが静かに響いた。
食べ終えた頃、藤が膳を下げながら言った。
「明日も、行かはるんですね」
問いかけではなく、確かめるような声だった。
「……うん」
「うちも連れていってください」
私は顔を上げた。
「あかん」
「昨日の約束。足引っ張ったら帰るよってに」
「あれは、市場を見るだけの話で……」
「明日は違うんですね」
私の声が詰まる。
藤は膳を脇に置き、きちんと座り直した。
正座のまま、真剣に私を見つめる。
「志乃さまが何をしようとしてはるか、全部はわかりません。でも」
藤の手が膝の上できゅっと握られた。
「一人で行かせたら、うちはきっと、ずっと後悔します」
「危ない場所やねんで」
「わかってます」
「もしかしたら、帰ってこられへんかもしれん」
「それでもです」
藤の声は震えていたが、決して引かない声だった。
「昨日、あの戸の向こうを見ました。あの女の人らの目も。……あんなん見てしもたら、知らん顔なんて、ようしません」
私は目を伏せた。
藤を巻き込みたくない。
その気持ちは本当だ。
でも、藤の言葉もまた本当だった。
止める言葉が見つからない。
「……足、引っ張ったらあかんで」
藤が深くうなずいた。
「はい」
短い返事だった。
でも、それで決まった。
*
夜はなかなか更けなかった。
布団に入って目を閉じるたび、お波の笑顔が浮かぶ。
口元は笑っているのに、目だけが止まっている。
生きている顔なのに、生きている気配がなかった。
澪守の血筋のあんた、狙われてるで。
男の声が何度もよみがえる。
帳面に書かれた自分の名。
横に付けられた印。
高くつけられた値段。
指先で布団を握る。
冷たい。
でも手のひらの奥では、まだ脈が打っていた。
結局眠れないまま、朝が来た。
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