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悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


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第14話 記された名

 戸から離れた瞬間、仲立ちの男が私の横に現れた。


 男は何も言わずに、

 ただ、顎で市場の出口を示した。


 帰れ、という意味だろう。


 私は藤の袖を引き、歩き始めた。


 帳面係が、笑顔のままじっと見てくる。

 市場の出口まで、その視線は追いかけて来ていた。

 路地に出ると、冷たい空気が顔に当たる。

 市場の甘い匂いが、まだ服に染みついている気がした。


 藤は私の隣を歩き、何も話さない。

 石畳を歩く足音だけが、二人分響き続ける。


 半丁ほど進んだところで、背後に足音が聞こえた。

 

 振り返ると、そこには仲立ちの男。

 男は立ち止まり、私を見つめた。


「……澪守の血筋は、市場の連中からしたら上物や」


 低く静かな声だった。


「どういう意味ですか」


「哀しみも痛みも、人一倍持っとる。上質なんや」


 男はそれだけを言うと、くるりと背を向けた。

 その背中は路地の角で見えなくなった。


 藤が私の袖を、そっと引く。

 何も言わずに。

 ただ、引いた。


 私たちはそのまま歩き続けた。


 *


 立花の家に戻ると、藤は夕餉の支度に入った。


 その動きは、いつもより静かだった。

 椀を置く音も、箸を並べる音も、何もかもが必要以上に丁寧だ。


 夕餉の間、藤はほとんど口を開かなかった。

 私が何か言えば短く答える。

 それだけだった。


 怒っているわけではない。

 きっと、あの目を思い出しているのだろう。


 笑っているのに、動いていない目。

 光の宿らない、虚ろな目。


 布団に入っても、しばらく眠れなかった。


 天井を見ながら、男の言葉を繰り返す。


 上物。

 哀しみも痛みも、人一倍持っとる。


 ……昨日の帳面係の視線が、今になって意味を持ち始めていた。


 いつから目をつけられていたのか。


 目を閉じた。

 甘い匂いがまだどこかに残っている気がした。


 *


 翌朝。


 藤を巻き込みたくない気持ちが、昨日より強くなっていた。


 あの青ざめた顔を、もう二度と見たくない。


 布団から出て、着物に袖を通しながら言い訳を考えていた。

 本を読む、手紙を書く、今日は部屋で過ごすだけ――だから来ないでいい、と伝えればいい。


 障子が開いた。


 藤だった。

 今日は盆も持たず、部屋の入り口に立っている。


「……今日は」


「今日は部屋にいる」


 藤の目がわずかに動いた。


「昨日より顔色がよろしおす」


「熱も下がった。今日はゆっくりするよ。昨日の……こともあるし」


「……そうですか」


 藤は部屋に入らず、入り口で私を見ている。


「今日は部屋に来なくていい。一人にして」


「お志乃さま」


「藤」


 少し強く声が出た。


 藤はしばらく黙り、やがて目を伏せた。


「……わかりました」


 障子が閉まる。


 しばらくその障子を見ていた。


 藤の足音が遠ざかっていく。

 廊下の奥で、音が消えた。


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。

 それでも、私は立ち上がった。


 *


 外へ出ると、昨日より冷たさが和らいでいた。


 雲の切れ間から柔らかな光が差している。

 石畳は白く乾いていた。


 それでも一月の朝だ。

 吐く息は白い。


 市場への道を歩きながら、今日の段取りを整理した。


 仲立ちの男を探す。

 訳も言わず引き止めた男を、今日は問い詰める。

 帳面係には必要以上に近づかない。

 昨日、追いかけてくるような視線を感じたので、今日はより慎重に動く。


 路地を二本曲がったところで、気配を捉えた。


 甘い匂いと、銭の音。


 今日は早かった。

 体がすっかり慣れてきている。


 板塀の切れ目を曲がると、市場が見えた。


 ふと足が止まる。


 何かが違う。


 景色は昨日と変わらない。

 秤があって、帳面があって、女たちがいる。


 でも、感じるものが違っていた。


 帳面係が、私を見ていた。

 市場に入った瞬間から、ずっと。

 さりげなさを装っているが、その目は針のように刺さってくる。


 目が合うと、すぐに笑顔を作る。

 今日も独特の間はなかった。


 仲立ちの男の姿を探す。


 いない。


 わざと今日は来ていないのか、どこか離れた場所から様子をうかがっているのか。


 私は素知らぬ顔で市場の中を歩いた。


 女たちの間を抜けて秤の方へ向かった。

 帳面係の視線がぴったりついてくる。


 帳面係の前には取引中の女がいた。

 帳面係は女と向き合い、丁寧に話している。


 私はほんの少し離れた場所に立った。


 帳面が開いている。

 昨日よりも名前が増えているようだ。


 自然な動作を装いながら、視線を帳面へ滑らせた。


 名前。日付。哀。痛。喜。印。


 ページを流して。

 また流して。


 ふと止まった。


 立花 志乃。


 自分の名前が、そこにあった。


 墨の色が周りの文字より新しい。

 最近、書かれたのだろう。


 横に数字がある。

 他の名前より、ずっと高い値だ。


 さらに隣には印があった。


 三角を崩したような、引っかき傷のような印。

 私の名前の横に、間違いなく刻まれている。


 息を吸った。

 空気が、うまく入ってこない感じがした。


 喉がつまった。

 指先がすっと冷える。

 帳面の文字が、じわりとにじんで見えた。


 最初から名前があったのか。

 市場に来るたびに目をつけられていたのか。

 それとも昨日、帳面を見たときに書かれたのか。


 頭の中で問いがめぐった。


 めぐりながら、一つだけはっきりしたことがある。


 もう、この出来事は他人事ではない。

 むしろ、最初から自分のことだったのかもしれない。


 顔を上げると、取引中の女はいなくなっていた。


 帳面係だけが、じっとこちらを見ている。

 遅れることなく、綺麗な笑顔を浮かべた。


 一歩、近づいてくる。

 ゆっくりと、落ち着いて。


「志乃さん」


 名前を呼ばれた。

 やわらかな声だった。


「今日は、お顔の色が良くありませんね。少し、奥で休みませんか」


 相手を怖がらせない、やさしい口ぶりだった。

 言葉にも警戒心を抱かせない工夫がある。


 保護、施療、休憩――いつも同じ型の言葉。


 私はなんとか笑顔を返した。

 うまく笑えた自信はない。


「……大丈夫です。今日は用事がありますので」


「そうですか」


 帳面係はそれ以上近づいてこない。

 だが、視線は外さなかった。


 私は市場の端まで歩き、板塀の影で息を吐く。

 吐いた白い息はすぐに消えた。


 自分の掌を見つめた。

 白い手。細い指。


 そこに印が刻まれている。


 その事実だけが、静かに頭の中に広がっていった。


 お波の目が脳裏によみがえった。

 笑っているのに、動きのない目。

 悼む力を抜かれた、空っぽの笑顔。


 私の名前は、あの帳面に記されていた。

 しかも値まで決められて。


 ドクン。


 掌の奥で、一度だけ脈打ちを感じた。


 一人で進むのは危険だ。

 仲立ちの男を探さなければ。


 私は市場の外へ出た。

 板塀の角を曲がり、路地を進む。


 路地の奥に、人の気配があった。


 板塀の影から市場の入口が見える位置に、一人の男が立っている。


 仲立ちの男だった。


 腕を組み、市場の方を見ている。


 私は足音を忍ばせて近づいた。


 男は気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。

 驚いた様子はない。

 ただ、少しだけ目が細くなった。


「……俺をつけたんか」


「たまたまです」


「嘘くさいなぁ」


 男は壁から背を離し、私を見る。

 一瞬だけ手元へ視線を送り、また私へ戻した。


「帳面に私の名前がありました」


 男の表情が、かすかに動いた。


「……見たんか」


「見ました。私の名前と、印と、値があった」


 男は何も答えない。

 腕を組んだまま目を伏せた。


「いつから書かれていたんですか。わかってたんでしょう」


 沈黙が続いた。


 路地の奥で、荷車の音がした。

 遠く、低く、石畳を転がっていく。


 男はようやく口を開いた。


「……三日前からや」


 三日前。

 お波が市場へ行った日と同じだ。


「最初から狙われていたんですか」


「……澪守の血筋は特別や。昨日も言うた通りやけど」


 男はまだ目を伏せている。

 答えてはいるが、顔を上げない。


「奥へ誘われました」


 男の目に光が宿る。


「断りました。でも……次は断れないかもしれない」


 沈黙があった。


「……一人で来るな」


「今日はたまたま一人なだけです」


「せやから言うてる。一人で来るな」


 男の声が低い。

 怒っているのでも、焦っているのでもない。


 ただ、強い。


「……話してください。知っていることを」


 男はしばらく黙っていた。


 路地に風が抜ける。

 一月の冷たい風が板塀の間を吹き抜けていった。


 男がゆっくりと口を開いた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

明日は21:30更新予定です。

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