第13話 甘い匂いの奥
夜が明けても、帳面係の笑顔が頭から離れない。
口もとが先に上がり、目が少し遅れてついてくる。
あの独特のずれ。
お波の笑い方に似ている。
似ているというより、同じなのかもしれない。
気持ちを入れ直すように、ぐっと着物の帯を締めた。
障子がそっと開いた。
藤だった。
昨日と同じように盆を持っている。
湯気の立つ椀と薬包を載せて。
藤は盆を置き、椀を差し出した。
私がそれを受け取るのを見届けてから、静かに話しかけてきた。
「今日も行かはるんですね」
それは問いではなく、確認だった。
「……うん」
「うちも連れていってください」
椀を口に運びかけた手が止まった。
「それは……あかん」
「いけずやわぁ」
藤の声は、いつもより低かった。
引き下がる気配はない。
「昨日も一人で行かはりましたでしょう。今日また一人では……」
「藤」
「お志乃さま」
藤は私の目を真っ直ぐに見ていた。
視線を逸らさない。
「うちにできることをさせてください。それに二人の方がはよ解決できますやろ」
私は椀の中を見つめた。
薬草の苦みが、まだ舌の上に残っている。
昨日の帳面係の目が頭をよぎる。
追いかけてくる視線。
帳面に書かれた名前。
一人で戻ることへの、小さな恐れが確かにある。
「……足引っ張ったら、帰ってもらうから」
藤は一度だけ、深くうなずいた。
*
市場は今日も場所が変わっていた。
藤を連れていると、匂いを辿るのに少し時間がかかる。
それでも昨日よりは早くたどり着けた。
体が覚えてきているのだろう。
板塀の角を曲がったところで、藤の足が止まった。
「……ここですか」
藤の視線が、秤の上の黒い雫を追っていた。
皿の上でゆっくり揺れて、やがて止まる。
「あれが……悲しみ、ですか」
「そう。隣の泥が痛み」
藤はぶるっと肩を震わせた。
仲立ちの男を探すと、すぐに見つかった。
市場の端で、腕を組んでこちらを見ている。
男の視線が、私から藤へ移る。
男は小さく息を吐いた。
呆れたような、困ったような、どちらともつかない溜め息だった。
「……また来たんか」
「また来ました」
「その子まで連れてきて」
「止めたんですが」
男の視線が藤に留まる。
何かを見定めるような視線を送る。
藤はその視線に気づき、小さく会釈した。
男はそれ以上何も言わなかった。
私は市場の女たちに声をかける。
印のついた名前の女たちを知らないか。
奥へ通された者がどうなったか、知っているか。
誰も答えなかった。
視線の逸し方が恐怖とは少し違った。
目を伏せるのでも、首を横に振るのでもない。
ただ、聞こえなかったふりをする。
決まりごとのように沈黙している。
そういうことだ。
帳面係に近づくと、私に気づき、すぐに穏やかな笑顔を作った。
今日はあの間がない。
「いらっしゃいませ。今日はご見学ですか」
「昨日の印について、もう少し聞かせてください」
「印、ですか」
「帳面の端についていた、三角のような形の」
帳面係は首をかしげた。
「さて……何のことでしょう」
「昨日、確かに見ました」
「お客さまには帳面の内容はお伝えできませんので」
やわらかい。
声がやさしい。
怖がらせない言葉ばかりが並ぶ。
「志乃さん」
仲立ちの男が迷惑そうに声をかけてきた。
「まだ答えを聞いていません」
「今日は帰り」
男の声が沈んだ。
「また同じことを言う」
「同じことしか言えへん。今日は特に、帰った方がいい」
男は藤をちらっと見た。
それから再び私を見つめた。
その止め方は、昨日よりも強い。
でも、止める気持ちは強いのに、理由は言わない。
答えを待っていると、市場の奥から人が動く気配がした。
帳面係が向かっていく。
私はその動きを目で追った。
市場の奥――秤と帳面の置き台のうしろに低い板戸があった。
普通なら見過ごすような、目立たない戸。
帳面係はその戸の前で立ち止まり、何かを確かめてから中へ入っていった。
戸が閉まり、私は歩き出す。
仲立ちの男が何か言った。
耳には入っていたものの、足は止まらなかった。
藤が後ろについてくる気配がする。
板戸の前に立つ。
隙間がある。わずかだが、明かりがもれている。
匂いが流れてきた。
甘い。
市場の甘さより、はるかに濃い。
もっと生々しい。
飴や蜜のような甘さではない。
何かが溶けているような、熟れすぎた甘さ。
私はその隙間から中を見た。
行灯の黄色い光の中、女が座っていた。
畳の上で、静かに座っている。
膝の上で手を重ね、背筋を伸ばして。
笑っていた。
きれいな笑顔だった。
口もとが上がり、目元が和らいでいる。
けれど、目が止まっていた。
動いていない。
笑いと一緒に動かない。
光のない、止まった目。
胸が締めつけられた。
よく見ると、もう一人いる。
奥の壁際にも、同じように座って、笑っている女が。
私はゆっくりと戸から離れた。
振り返ると、藤が私の袖を握っていた。
顔は青ざめている。
その女の顔を、私は知っていた。
昨日、母親が探していた女だった。
お波だ。
生きている。
怪我もない。
ただ、笑っている。
あの目で、笑っている。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
明日も20:30〜21:30頃更新予定です。




