第12話 帳面の印
路地の端で、母親から話を聞いた。
三日間、お波は黙り込んでいたらしい。
そして昨日、一人で市場へ行った。
路地をぶらついていると、甘い匂いがして、気づいたら市場の中にいたらしい。
お波は帰宅後、「悲しみを売った」と、母親に話した。
悲しみを売れば、少しは楽になると思ったのだという。
「その後、奥に通されたと言ってました」
兄は静かに語る。
「奥、というのは……」
「わかりません。でも、帰ってきたとき
『ちょっと休ませてもらった』と言ってましたから……
奥の部屋か、どこかで横になってたんやと思います」
休ませてもらった。
その言葉が引っかかる。
「帰ってきたのは、何時ごろですか」
「夕方……かな……日が暮れる少し前に。いつも通りに帰ってきて……あの顔で」
兄は壁から手を離し、お波を見た。
お波はまだ笑っている。
兄の視線に気づくことなく、ただ笑い続けていた。
私は礼を言い、その場を離れた。
路地を二本歩いたところで、足を止めた。
頭の揺れはまだある。
それでも、気配を探る集中力だけは残っていた。
匂い。
甘い匂い。
朝には感じなかったその香りが、今はかすかに鼻の奥に触れる。
銭の音。
遠い。
遠いが、確かに聞こえる。
右の路地の、さらに奥。
足が自然と動いていく。
板塀が途切れたところで、人だかりが見えた。
今日の市場は、昨日より少し狭い路地にあった。
秤の音、帳面の紙音、女たちの声。
今日は少し違った色で見える。
私は仲立ちの男を探した。
いた。
市場の端、秤から少し離れた場所に立っている。
近づくと、男はこちらを見た。
驚いた様子はない。
来ると思っていたような顔だった。
「また来たんか」
「聞きたいことがあります」
「……聞かれても、答えるとは限らへんで」
男は腕を組みながら、市場の方に視線を流した。
「昨日、笑う女に会いました。悲しみを売った後、奥に通されたと聞きました」
「……そうか」
「それだけですか」
「それだけや」
男の声は変わらない。
けれど、腕の組み方がわずかに固くなった気がした。
「奥とは何ですか。誰が通すんですか」
「市場のことは市場の者に聞き」
「だから今、聞いているんです」
男はじっと私を見つめた。
黙ったまま、何かを計算している目をしている。
「……今日は帰った方がええ」
「帰れません」
「志乃さん」
男の声が少しだけ低くなった。
「今日は帰った方がいい。あんたのためや」
その言い方が、また引っかかった。
答えないのに、その場から立ち去らない。
止める理由があるのに、それを言わない。
返す言葉を探していると、市場の入り口が騒がしくなった。
振り向くと、人垣が分かれている。
そこにいたのは、母親だった。
兄が後ろから止めているのに、母親は市場に向かって歩みを進めている。
足は震えているのに、止まらない。
「娘をどこへやったんですか」
母親の声が路地に響き渡った。
女たちが一斉に振り返る。
秤の音が止まった。
帳面をつける若い者が、すっと立ち上がった。
年は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
細い顔に、穏やかな目。
慌てる様子はない。
「少し落ち着いてください。お話は伺います」
声はやわらかかった。
「落ち着けるわけあらしません。娘は昨日ここに来てから、おかしくなったんや」
「おかしくなった、というのは」
「泣けへんのです。悲しめへんのです。おばあさんが亡くなって、あれほど泣いとったのに——」
母親の声は震えていた。
帳面係は母親の話を聞きながら、静かにうなずいていた。
丁寧に、ゆっくりと。
「ご心配はわかります。ただ、こちらで保護してお休みいただいたのは事実なんです」
「保護?」
「施療といいますか……感情を売られた後は、少し体が揺らぎます。奥でお休みいただくのは、お客さまのためなんです」
「でも帰ってきたら、笑い方がおかしなっとったんや」
「それは……少し時間が経てば落ち着くかと。感情の売買には、多少の後引きがありますので」
後引き。
その言葉を、帳面係はさらりと言った。
まるで当然のことのように。
市場の女たちは、見ていないふりをしていた。
怖いからではなく、そういう作法だから見ない。
私は帳面係と母親のやり取りの隙を突いて、秤の方へ近づいた。
帳面が開いたまま置いてある。
名前が並んでいる。日付と、売買の内容と、数字。
指でなぞることはできない。
目で追うだけにとどめた。
名前。日付。哀。痛。喜。
視線を滑らせていくと、帳面の端に小さな印があることに気づいた。
三角を崩したような、引っ掻き傷のような形。
同じ印がまた現れる。
さらに目を動かすと、もう一つ。
一つ二つではない。
数えれば、十を超えるかもしれない。
印のついた名前の横には、必ず「哀」か「痛」の字がある。
しかもその値は高い。
ほかの名前の数字よりも、ずっと高い。
「この印——」
顔を上げた瞬間、帳面係と目が合った。
「……お客さん」
帳面はぱたんと閉じられた。
「この印、何ですか」
一拍、間があった。
帳面係は笑う。
口もとが先に上がって、目が遅れてついてきた。
そのわずかな間のずれが、確かにあった。
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