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悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


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第11話 笑う女

 夜が明けても、熱は完全には引かなかった。


 ふっと目を開けるたびに、天井の木目がぼんやりとにじんで見える。

 唇はひどく乾き、唾を飲み込む喉が痛い。


 それでも、ずっと横になっているのは限界だった。


 布団の中で体を動かすと、畳がきしむ音がした。

 その小さな音で、この家がどれほど静かなのかを実感する。

 

 人の気配はあるのに、音がしない。


 私はゆっくりと体を起こした。

 頭の中がふわふわと揺れる感覚がある。

 まだ熱が残っている証拠だ。


 それでも、ここにいる息苦しさの方が、熱よりもずっと重く感じた。


 着物の衿を合わせ、帯を締める。

 志乃の手つきは、昨日より手際がいい。


「失礼します」


 障子が静かに開いた。


 藤は、湯気の立つ椀と小さな薬包を載せた盆を持っていた。

 部屋に入ろうとした藤の視線が、私の着物で止まる。


「……これ、飲んでください」


 声は静かだった。

 決して責める口調ではない。


 藤は盆を畳の上に置き、正座して薬湯の椀を差し出した。


 椀を受け取り、一口飲む。

 

 苦い。

 薬草の苦味が、乾いた喉にしみわたる。


 藤は飲み終えるのを待ってから、私の額に手を伸ばした。

 少しためらうように、そっと当てる。


「……まだ熱ありますよ」


 その手はひんやりとしていて心地よい。


「……わかってる」


「わかってはるんやったら」


「……でも行かないと」


 藤の手が額から離れた。

 その手は膝の上で、ゆっくりと握りしめられた。


 怒っているのでも、諦めているのでもない。

 何かと必死に戦っているような表情をしている。


「……夕方には戻る。それだけは約束するわ」


 藤はぱっと顔を上げた。


「約束ですよ」


「うん……必ず守る」


 藤の目が揺れている。

 信じたいのか、信じるしかないのか。


 それでも藤は立ち上がり、黙って帯の結び目を後ろで丁寧に直してくれた。

 その手の動きが、胸の奥をきゅっと締め付けた。


 *


 立花の門をくぐると、冷たい空気が頬を打った。


 一月の祇園は、息が白くなるほど寒い。

 石畳は夜の冷えを残していて、下駄の底から冷たさが伝わってくる。


 空は灰色。

 雲が低い。


 それでも、外の空気は深く吸い込めた。

 立花の家の中よりも、ずっと深く。


 胸の奥まで、冷たい空気が広がる。


 私はしばらくその場に立っていた。

 熱っぽい頭が、少しだけ澄んでいく気がする。


 荷車の音や下駄の響き、遠くから聞こえる物売りの声。

 

 目新しくはあるけれど、八坂までの道自体は、記憶の中の景色とあまり変わらなかった。


(記憶の中の今、って……いつのことだろう……)


 こんな状態で、実家に踏み込むのは無謀としか言いようがない。

 まずは仲立ちの男を探そうと、市場があった路地へ向かった。


 大きく息を吸い込んで、匂いをたどった。


 甘い香り。


 そして、銭の音と人の気配。


 何も感じない。


 路地は普通の細道だった。

 板塀と石畳、どこかの家から漂う味噌の匂いだけ。


 昨日の市場の形跡は、一つも残っていない。


 もう一本、路地を変えた。

 それでも、何も見つからない。


 さらに一本。

 やはり、何もない。


 立ち止まり、息を吐く。

 白い息は、すぐに消えた。


(市場は毎回、場所が変わる)


 昨日、それを身をもって知ったはずだ。


 熱のせいか、焦りのせいか。

 何かが微かにずれていて、気配を捉えられない。


 私は石段の端に腰を下ろした。


 空を見上げると、雲の隙間からわずかに光が差していた。

 昼を過ぎれば、また曇るだろう。


(早めに引き返すべきか)


 そう思ったとき、路地の角から声が聞こえた。


 低い、押し殺したような声。

 泣いているのか、怒っているのか、両方なのかもしれない。


 *


 角を曲がると、三人がいた。


 中年の男、年老いた女、その間に立つ若い女。


 若い女は、笑っていた。

 口元は上がり、目元が緩んでいる。

 きれいな笑顔だ。


 なのに、足が止まった。


 笑顔の形はきれいなのに、なぜか怖い。

 その理由はすぐにはわからなかった。


 若い女の袖を両手で握る年老いた女——おそらく母親だろう。

 何かを必死で訴えている。


 若い女は、その手元をちらりと見てから、また笑顔を浮かべた。


 その切り替え方が不自然だった。

 なんだか薄い膜がずっと貼り付いているように見える。


 母親が若い女の頬にそっと手を当てた。

 確かめるためのように、優しく。


 若い女は首をかしげた。


「……どうしたん、お母さん」


 声は明るい。

 明るいけれど、平坦だった。


 母親の手が、頬の上で止まったまま動かない。


 中年の男——兄と思われる人物が、路地の壁に手をつき、頭を垂れている。


 他人の家のことに踏み込む権利は、私にはない。

 その場をそっと通り過ぎようとすると、母親が振り返った。


 ぱっと目が合う。

 

 縋るような目。

 母親の目は赤く腫れていた。

 泣き続けたせいだろう。


 私の足が止まる。


「……このあたりに……お住まいですか」


 母親の声は震えていた。


(答えたら、巻き込まれる。わかってる……でも……)


「……少し、離れたところに」


 母親が一歩、近づいてくる。


「この子のことを……この子が昨日、何かを売ったと言って帰ってきたんです。それからずっと、あんな顔で……」


 母親は言葉に詰まりながら、続けた。


「昨日の朝まで、泣いてたんです。十日は泣いてたかな……この子のおばあさんが亡くなって」


「おばあさんが亡くなったのは、いつ頃ですか」


「お正月が終わってすぐです……」


 一月の上旬。

 お正月の余韻がまだ残る時期に、亡くなったのか。


「お波はおばあさんが大好きで……亡くなってから、ろくに食事もとらんと、家では『死んだらおばあさんのそばに行ける』と言い出すもんやから、もう心配で心配で……」


 母親の声が低くなる。


「それが二三(にさん)日前から急に黙り込んで、昨日、一人でどこかへ出かけたはずなんやけど、帰ってきたら、あの顔になってしもて」


 兄が顔を上げた。


「帰ってきたとき、『ちょっと休ませてもらった』って言ってたけど。それだけ言って部屋にこもった翌朝から……あんなふうに笑ってて……」


 私はお波の顔を見た。

 ただ立って、笑ったままだった。


「……お母さんのこと、わかりますか」


 そっと声をかけた。


「そらわかります。お母さんやもの」


 声は穏やか。

 答えも正しい。


 でも、その穏やかさの中に何も感じない。


「おばあさんのことは」


 お波の顔が、少しだけ動いた。

 考えているような間があった。


「……おばあさん」


「ええ。亡くなったおばあさんのことを覚えていますか」


 お波はしばらく笑ったままだった。

 それから首をかしげた。


「さあ……どうでしたかね」


 母親が、声を上げた。

 兄は、膝から崩れ落ちそうになる母親を支えた。


「あんた、おばあさんのこと好きやったやろ。毎日顔見に行っとったやないか。おばあさんが亡くなったとき、あれほど泣いとったのに……」


「……そう……でしたかねぇ」


 お波の笑顔は変わらない。

 変わらないまま、首をかしげている。


 痛みが消えたわけではない。

 それだけは、わかる。


 もっと深いところにあった何かが、ごっそり抜けている。


 おばあさんを悼む気持ち。

 死にたくなるほど。


 ——それを思い出したとき、寒気がした。


 一月の冷えより深いところから、ぞくりとくる寒さ。


 母親は私の袖を掴んだ。

 目に涙が浮かんでいる。


「……昨日、ここで売ったんやわ……」


 母親の手は震えていた。


「そう、この子が昨日、このあたりで何かを売ったと言ったんです。あなた、何かご存じありませんか。この子が笑うたび、なんか恐ろしゅうて……こんな笑い方、今まで一度もしたことがなかったのに……」


 私は母親の手を、そっと握った。


 答えはまだ持っていない。

 だけど、「知らない」とは言えなかった。


「……少し……もう少し話を聞かせてください」


 母親の肩が、静かに落ちた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

明日も21:30頃更新予定です。

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