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悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


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第10話 石女と呼ばれる嫁

 夜が更けても、眠れなかった。


 障子の向こうは静かで、立花の家は物音ひとつ立てない。

 宗一郎の足音は、とっくに消え去った。


 それなのに、私はここにいる。

 逃げられない形で。

 障子がそっと開いた。

 藤が、音を立てないように部屋に入ってくる。


 部屋の空気が少しだけ戻る。

 戻った、というより藤がやっと息をしてもよいと許された、そんな感じだった。

 

 「……志乃さま」


 控えめな声。

 呼ばれるたびに胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 私の名前ではないのに、私の体はその呼びかけを受け取ってしまう。


 藤は薬湯の盆を畳に置き、私の枕元で膝をついた。

 湯気に混じる薬草の苦い匂いが、わずかに白粉や線香の香りを追いやる。


 「旦那さま、怒ってはりました?」


 藤の目が揺れていた。

 本当は私が怒られる立場なのに、藤のほうが怯えているようだった。


 「……怒ってた、のかな」


 自分の声が頼りない。

 これまで何度も"夫婦の言い合い"を経験してきたのに、今の会話は似ているようで、まるで別物だった。


 宗一郎の言葉は、感情ではなく規則だ。

 規則を破れば罰が下る。


 藤は唇を噛んだ。


 「志乃さま……外に出たらあかんって、言われました?」


 「……うん。今日は、って」


 私がそう言うと、藤の肩が落ちた。

 安堵ではない。諦めに似た落ち方だった。


 「飲んでください。……奥さま、今日は"あの日"に近いから」


 藤は薬湯の椀を差し出した。

 私はそれを受け取る。


 熱い。

 確かに現実だった。


 あの日。

 

 その言葉が、突然足元を冷やした。

 祇園の雪よりも、冷たく深く。


 私は椀のふちを見つめたまま、藤に聞いた。


 「……藤。私は、ここで……どういう人なん」


 藤は一瞬だけ目を伏せ、答えを探しているようだった。

 やがて覚悟したように、まっすぐ私の目を見た。


 「志乃さまは、立花家のお嫁さんです。旦那さまの……奥さま」


 立花家。


 「じゃあ、なんで……みんな、こんな……」


 "こんな"という言葉に、言えない何かが詰まっている。


 部屋の冷たさ。

 藤の怯え。

 宗一郎の命令。

 「外へ出るな」という禁止事項。


 藤は静かに息を吸った。


 「……志乃さまは」


 そこで、藤の声がほんの少しだけ震えた。


 「……子ぉ、産めはらへんって……言われてます」


 私は一度まばたきをした。


 「言われている」という言い方。

 事実ではなく、烙印。

 誰かが貼った札。


 藤は続ける。


 「奥さまのこと、陰で……"石女(うまずめ)"って呼ぶ人もおるんです」


 石女。


 その言葉が胸に落ちる。

 重いはずなのに、不思議と馴染んでしまう。


 詩乃としての私も、子どもが産めなかった。

 違う時代で、同じ傷を背負っている。


 私は笑ってしまいそうだった。

 しかし笑いは出てこず、代わりに喉が詰まりそうになる。


 「……藤。ここは、そういう世界なんやね」


 藤はぎゅっと拳を握った。


 「うちは……志乃さまが悪いとは思いません」

 「けど、奥さまの立場は……この家では、弱いんです」


 弱い。

 その言葉の正しさが、私にはもうわかる。


 宗一郎は夫で、私はその妻。


 それだけで、言葉の強さが決まってしまう。


 障子の向こうから足音がした。

 先ほどとは違う、細かく急いだ足音。


 藤が顔色を変えた。


 「……志乃さま。先に飲んで。(はよ)う」


 藤は立ち上がり、障子へ向かった。

 その背中は、さっきよりずっと硬くなっている。


 障子が開く。


 「藤。いつまで中におるの。こっちは忙しいんえ」


 女の声がした。おそらく年の頃は四十を過ぎている。

 柔らかそうでいて、刃を含んだ声。


 藤は頭を下げた。


 「すみません。志乃さまに薬湯を……」


 「薬湯? そんなん、いくら飲んでも同じやろ」


 女の笑い声が混ざる。


 私は手を握りしめた。


 言い返したい。

 止めたい。

 でも、声が出ない。


 出したところで、誰も私の味方になってくれないだろう。

 私はこの家で"守られる側"ではない。


 女が部屋に入ってきた。


 着物の柄は地味だが、帯の締め方はきっちりしている。

 目は細く、口元だけが笑っていた。


 「……志乃さん。起きてはったん」


 声だけは丁寧だ。

 しかし丁寧なほど、棘がはっきりわかる。


 藤が小さな声で私にささやいた。


 「……お義母さまです」


 義母。


 私は目を上げた。


 宗一郎の母。

 ——つまり、この家の空気を作っている人。


 義母は私の顔を一瞥し、それから薬湯の椀を見た。

 まるで役に立たない道具を見るように。


 「また八坂へ行ったんやって?

 宗一郎から聞いたえ。あんた、懲りひんねえ」


 私の背中が冷えた。

 義母は畳に座らず、部屋の端に立ったまま続ける。


 「石女が八坂へ何しに行くんや。

 祈ったら子どもができるとでも思うたん?

 そない都合のええ話、あるわけないやろ」


 言葉が胸の奥に突き刺さる。

 突き刺さっても、私は泣けない。


 泣けない代わりに、怒りが来た。

 腹の底が澄んだ怒りで熱くなる。


 (どうして)


 どうして、いつの時代も。

 どうして、女だけが。


 私は薬湯を一口飲んだ。

 

 苦い。

 でも、その苦さが喉を少しだけ通してくれる。


 顔を上げて言った。


 「……八坂へ行ったかどうか、私もはっきり覚えてません」


 義母の目が細くなる。


 「覚えてない?」


 「熱があって……」


 私は嘘をついた。

 嘘をつかないと、私はここで潰される。


 でも、嘘をつくたびに自分が自分でなくなる気がしていた。

 それは現代でも同じか。


 義母は、ふっと鼻で笑った。


 「都合のええ記憶やなあ。

 まあ、ええわ。どのみち、あんたの腹は空っぽのままやし」


 その言葉で、一瞬、私の視界が白くなった。


 手術室の白。

 母子手帳に残る空白。

 黒板に書かれた「悼」の字がにじんだ白。


 私は椀を持つ手に力が入る。

 指先が震えていた。


 義母は私の震えにも、顔色ひとつ変えなかった。


 「志乃さん。

 立花の嫁は、立花の顔や。

 余計なことして恥さらさんといて」


 そう言い捨てて、義母は背を向ける。

 藤が深く頭を下げる。


 障子が閉まる。

 足音が遠ざかる。


 部屋の空気は、さっきより一層冷たくなった。

 藤が小さく震えているのがわかる。


 私は椀を畳の上に置き、手のひらを見つめた。


 白い手。

 細い指。


 この手は、志乃の手だ。

 私は志乃として、この家で生きている。


 石女と呼ばれ、外へ出るなと命じられ、八坂へ行くことも禁止される。


 それでも胸の奥の"何か"が「八坂へ行け」と叫んでいる。


 私は喉の奥に詰まりを感じた。

 泣けないまま、怒りだけが静かに燃え続ける。


 「……藤」


 藤が顔を上げる。


 「八坂って……そんなに、あかん場所なん?」


 藤は答えなかった。

 答えられない。


 代わりに、藤の視線が障子の向こうへ逃げた。

 その先に、何かがある。


 私は藤の視線の先を見やる。


 廊下の奥。

 その先で、かすかに鈴の音が聞こえた気がした。


 八坂の鈴の音。


 私の胸の奥が、またきゅっと鳴る。


 ——行かなければ。


 理由はわからない。

 でも、ここで立ち止まれば何かを失う気がした。


 私は着物の端を握りしめ、そっと息を吐く。


 なら、私は変わるしかない。

 "弱い嫁"のままでは終われない。


 たとえ、それが誰の意志であっても。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

明日から20:30更新に戻ります。

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