第1話 八坂の階段を上る日
目が覚めたとき、まず匂いが違った。
手指消毒のアルコールでも、雨上がりのアスファルトでもない。甘い白粉と、線香と、湿った木の匂い。
その香りは、遠い記憶のように鼻の奥にまとわりつき、懐かしい気配だけが残る。
次に聞こえたのは、かすかな三味線の音。
障子の向こうから、誰かが弦をつまびいている。ひと音ごとに空気が震え、私の胸の奥――固く閉ざしてきた場所が、そっと揺れた。
……おかしい。
私は、上原詩乃。35歳。大阪の高校で国語を教えている。
有休を使い、訪れた平日の京都。最後の記憶は、八坂神社の石段だった。
階段の途中で、風が変わり、匂いが変わった。
白粉と線香と湿った木。
現代ではありえない匂いを感じた瞬間、視界が傾いて――。
*
私はゆっくりと目を開けた。
障子の木枠は古く、紙はやわらかく光を通している。天井は低い。
耳を澄ますと、遠くで誰かの笑い声がして、からころと下駄の音が響いた。
私は、ここが夢だと決めつけたい。でも、規則正しい畳の目をなぞると、その感触がちゃんと残る。
体を起こそうとして、ふと自分の手を見た。
白く、細い指。爪の形も違う。
……私の手じゃない。
髪を指で探って結い方に触れた。
……おかしい。
喉が締まる。息が浅くなる。
――おかしい。おかしい。おかしい。
息を殺した瞬間、廊下の気配が耳に刺さった。
間を置いて、敷居がすうっと擦れる音。
次の瞬間、障子がそっと開き、細い隙間から女の子の顔が覗いた。
年の頃は16、7。髪はきっちり結い上げているのに、どこか落ち着きがない。手には小さな盆を持っていて、湯気の立つ椀を載せていた。
私と目が合った途端、女の子は息を呑んだ。
「……よかった。目ぇ、覚ましたんですね」
声はやわらかい。関西弁に近いけれど、私の知っている大阪とも少し違う――そんな距離感。
女の子は盆を畳に置くと、膝をついてこちらへ寄った。私の顔を覗き込む目が大きく揺れている。
「ほんまに……また倒れはって。無茶したらあかんのに」
倒れた……らしい。私が?
思ったままを答えようとすると、言葉が喉に引っかかる。そこでやっと、喉が渇いていることに気づいた。
女の子は、椀を静かに差し出した。
「白湯です。少し飲んでください」
椀から指先に確かな熱が伝わる。夢なのに、温度がある。
一口含むと、喉がほどけた。湯気が鼻へ抜ける。
すると、胸の内に薄い膜のように張りついていたものが、かすかに震えた。
――泣く前の感じに似ている。
でも、涙が出るわけでもない。ただ、閉ざした場所が「触れられた」だけ。
椀を膝に置き、女の子に尋ねた。
「……あなた、名前は?」
女の子は目を丸くして、それから、しまったという顔で頭を下げた。
「すみません。うちはお志乃さま付きの手伝いで、藤って言います。どうか、これからはお見知りおきを……」
お志乃さま。
その呼び方が胸に刺さる。私の名前じゃないはずなのに、体のどこかが「それ」を知っている。
「志乃……?」
口にすると、妙に馴染んだ。嫌になるほどしっくりくる。
藤はほっとしたように息をついた。
「……でもよかった。ほんま、心配しました。さっきまで、ずっと熱っぽくて」
藤の言葉を追いかけながら、私は別のものを探していた。この部屋の「今」を示す、何か。
壁に時計はない。電灯の紐も見当たらない。それなのに、暗くはない。障子越しにやわらかな光が部屋に満ちている。
遠くで人の声。木の建物がきしむ音。
さらに遠く――低く重い鐘の音が、ひとつ。
ごうん。
寺の鐘。
「……藤。ここは、どこ?」
藤はきょとんとして私を見た。冗談を言われたみたいに笑いかけて、それが途中で止まる。
「京です。祇園の辺り。八坂さんの近くです」
京。祇園。八坂。
その地名が、視界の輪郭を与える。京都も祇園も八坂神社も知っている。
けれど、この空気は私の知っている京都と違う。
観光地のざわめき。看板の光。車の音。
時刻も日付も掴めない。というより、年代そのものが違う気がした。
「……今日、何年?」
その問いに触れた瞬間、藤の目が廊下のほうを1度だけうかがった。まるで、この家では口にしてはいけないことみたいに。
「志乃さま……」
藤は小さく私の袖をつかんだ。まるで止めるように。
それがかえって、嫌な予感を濃くした。
ためらうように視線を落とし、藤は答えた。
「大正12年、です」
大正12年。
頭が真っ白なのに、年号だけは授業の板書みたいに浮かんだ。
私は椀を持ったまま固まった。
指先が震える。椀の熱が、急に遠ざかった。
藤が怯えた声で続ける。
「……ほんまに覚えてはらへんのですか。志乃さま、昨日も……」
昨日。
私には、ここの「昨日」などあるはずがないのに、藤は私を「昨日から続く人」として見ている。
私は自分の喉が鳴る音を聞いた。泣きたいのに泣けない、あの癖がまた出る。
感情の扉を閉める手つきだけが、いつの間にか上手くなっていた。
けれど――この部屋の匂いと三味線の音が、その扉の蝶番をゆっくりと緩めていく。
「藤」
できるだけ落ち着いた声を作る。授業中、泣きそうな自分を誤魔化すときみたいに。
白湯の椀を膝に置いて、浅い息を数えた。
「……私は倒れてたんやね。どれくらい?」
藤は私の問いかけにほっとしたように頷いた。
「ほんの少しです。でも……熱もあって。うち、怖かった」
怖かった。その言葉が胸に響く。
私は藤の手を見た。
小さくて、働き者の手。私を支えようと差し出された手。
藤の指が小さく震えているのがわかった。私は1度息を吐いてから、ゆっくりとその手を取った。
今、頼れる唯一の現実。よかった、ぬくもりがちゃんとある。
「……ありがとう」
藤は泣きそうな笑みを浮かべた。
「よかった。……それで、今日のことなんですけど」
藤の声がほんの少しだけ重くなる。
「八坂の階段、また上がらはるんですか。雨のあとで足元も悪いのに。しかも……最近、女の人が攫われたって噂もあって、うちは正直、怖いんです」
その言葉が胸の奥を揺らした。
私は藤を見た――何かを知っていそうな目。
藤の「怖い」は、ただ転びそうだから、という単純なものではないようだ。
そのとき、廊下の向こうで別の足音がした。硬く、迷いがなく、まっすぐこちらに向かってくる。
足音のリズムだけが、胸の奥のどこかをざらりと撫でた。
障子の向こうから低い咳払いが1度。
藤は反射的に背筋を伸ばし、声を落として「旦那さま」と呼んだ。
部屋の空気が、しんと冷える。背中の皮膚が粟立つ。
私は息を止めた。ここで「誰か」に会うことが、私の運命を決める――その予感だけがやけに鮮明だった。
そして。
男の声が響く。
「志乃。……また、八坂へ行ったのか?」
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