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悼みの澪守 ~大正祇園、痛みを売る女たちと感情犯罪ミステリー~  作者: 森川 澪


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第1話 八坂の階段を上る日

 目が覚めたとき、まず匂いが違った。


 手指消毒のアルコールでも、雨上がりのアスファルトでもない。甘い白粉と、線香と、湿った木の匂い。


 その香りは、遠い記憶のように鼻の奥にまとわりつき、懐かしい気配だけが残る。


 次に聞こえたのは、かすかな三味線の音。


 障子の向こうから、誰かが弦をつまびいている。ひと音ごとに空気が震え、私の胸の奥――固く閉ざしてきた場所が、そっと揺れた。


 ……おかしい。


 私は、上原詩乃。35歳。大阪の高校で国語を教えている。


 有休を使い、訪れた平日の京都。最後の記憶は、八坂神社の石段だった。


 階段の途中で、風が変わり、匂いが変わった。


 白粉と線香と湿った木。


 現代ではありえない匂いを感じた瞬間、視界が傾いて――。



 私はゆっくりと目を開けた。


 障子の木枠は古く、紙はやわらかく光を通している。天井は低い。


 耳を澄ますと、遠くで誰かの笑い声がして、からころと下駄の音が響いた。


 私は、ここが夢だと決めつけたい。でも、規則正しい畳の目をなぞると、その感触がちゃんと残る。


 体を起こそうとして、ふと自分の手を見た。


 白く、細い指。爪の形も違う。


 ……私の手じゃない。


 髪を指で探って結い方に触れた。


 ……おかしい。


 喉が締まる。息が浅くなる。


 ――おかしい。おかしい。おかしい。


 息を殺した瞬間、廊下の気配が耳に刺さった。


 間を置いて、敷居がすうっと擦れる音。


 次の瞬間、障子がそっと開き、細い隙間から女の子の顔が覗いた。


 年の頃は16、7。髪はきっちり結い上げているのに、どこか落ち着きがない。手には小さな盆を持っていて、湯気の立つ椀を載せていた。


 私と目が合った途端、女の子は息を呑んだ。


「……よかった。目ぇ、覚ましたんですね」


 声はやわらかい。関西弁に近いけれど、私の知っている大阪とも少し違う――そんな距離感。


 女の子は盆を畳に置くと、膝をついてこちらへ寄った。私の顔を覗き込む目が大きく揺れている。


「ほんまに……また倒れはって。無茶したらあかんのに」


 倒れた……らしい。私が?


 思ったままを答えようとすると、言葉が喉に引っかかる。そこでやっと、喉が渇いていることに気づいた。


 女の子は、椀を静かに差し出した。


「白湯です。少し飲んでください」


 椀から指先に確かな熱が伝わる。夢なのに、温度がある。


 一口含むと、喉がほどけた。湯気が鼻へ抜ける。


 すると、胸の内に薄い膜のように張りついていたものが、かすかに震えた。


 ――泣く前の感じに似ている。


 でも、涙が出るわけでもない。ただ、閉ざした場所が「触れられた」だけ。


 椀を膝に置き、女の子に尋ねた。


「……あなた、名前は?」


 女の子は目を丸くして、それから、しまったという顔で頭を下げた。


「すみません。うちはお志乃さま付きの手伝いで、藤って言います。どうか、これからはお見知りおきを……」


 お志乃さま。


 その呼び方が胸に刺さる。私の名前じゃないはずなのに、体のどこかが「それ」を知っている。


「志乃……?」


 口にすると、妙に馴染んだ。嫌になるほどしっくりくる。


 藤はほっとしたように息をついた。


「……でもよかった。ほんま、心配しました。さっきまで、ずっと熱っぽくて」


 藤の言葉を追いかけながら、私は別のものを探していた。この部屋の「今」を示す、何か。


 壁に時計はない。電灯の紐も見当たらない。それなのに、暗くはない。障子越しにやわらかな光が部屋に満ちている。


 遠くで人の声。木の建物がきしむ音。


 さらに遠く――低く重い鐘の音が、ひとつ。


 ごうん。


 寺の鐘。


「……藤。ここは、どこ?」


 藤はきょとんとして私を見た。冗談を言われたみたいに笑いかけて、それが途中で止まる。


「京です。祇園の辺り。八坂さんの近くです」


 京。祇園。八坂。


 その地名が、視界の輪郭を与える。京都も祇園も八坂神社も知っている。


 けれど、この空気は私の知っている京都と違う。


 観光地のざわめき。看板の光。車の音。


 時刻も日付も掴めない。というより、年代そのものが違う気がした。


「……今日、何年?」


 その問いに触れた瞬間、藤の目が廊下のほうを1度だけうかがった。まるで、この家では口にしてはいけないことみたいに。


「志乃さま……」


 藤は小さく私の袖をつかんだ。まるで止めるように。


 それがかえって、嫌な予感を濃くした。


 ためらうように視線を落とし、藤は答えた。


「大正12年、です」


 大正12年。


 頭が真っ白なのに、年号だけは授業の板書みたいに浮かんだ。


 私は椀を持ったまま固まった。


 指先が震える。椀の熱が、急に遠ざかった。


 藤が怯えた声で続ける。


「……ほんまに覚えてはらへんのですか。志乃さま、昨日も……」


 昨日。


 私には、ここの「昨日」などあるはずがないのに、藤は私を「昨日から続く人」として見ている。


 私は自分の喉が鳴る音を聞いた。泣きたいのに泣けない、あの癖がまた出る。


 感情の扉を閉める手つきだけが、いつの間にか上手くなっていた。


 けれど――この部屋の匂いと三味線の音が、その扉の蝶番をゆっくりと緩めていく。


「藤」


 できるだけ落ち着いた声を作る。授業中、泣きそうな自分を誤魔化すときみたいに。


 白湯の椀を膝に置いて、浅い息を数えた。


「……私は倒れてたんやね。どれくらい?」


 藤は私の問いかけにほっとしたように頷いた。


「ほんの少しです。でも……熱もあって。うち、怖かった」


 怖かった。その言葉が胸に響く。


 私は藤の手を見た。


 小さくて、働き者の手。私を支えようと差し出された手。


 藤の指が小さく震えているのがわかった。私は1度息を吐いてから、ゆっくりとその手を取った。


 今、頼れる唯一の現実。よかった、ぬくもりがちゃんとある。


「……ありがとう」


 藤は泣きそうな笑みを浮かべた。


「よかった。……それで、今日のことなんですけど」


 藤の声がほんの少しだけ重くなる。


「八坂の階段、また上がらはるんですか。雨のあとで足元も悪いのに。しかも……最近、女の人が攫われたって噂もあって、うちは正直、怖いんです」


 その言葉が胸の奥を揺らした。


 私は藤を見た――何かを知っていそうな目。


 藤の「怖い」は、ただ転びそうだから、という単純なものではないようだ。


 そのとき、廊下の向こうで別の足音がした。硬く、迷いがなく、まっすぐこちらに向かってくる。


 足音のリズムだけが、胸の奥のどこかをざらりと撫でた。


 障子の向こうから低い咳払いが1度。


 藤は反射的に背筋を伸ばし、声を落として「旦那さま」と呼んだ。


 部屋の空気が、しんと冷える。背中の皮膚が粟立つ。


 私は息を止めた。ここで「誰か」に会うことが、私の運命を決める――その予感だけがやけに鮮明だった。


 そして。


 男の声が響く。


「志乃。……また、八坂へ行ったのか?」

ここまで読んでくださりありがとうございます。

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