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食卓と匂いの記憶

 薪がぱちぱち鳴る音は、家の鼓動みたいだった。

 台所の窓は小さく、そこから入る夕暮れの光はバターを溶かしたみたいにやわらかい。母は袖を少し折って、生地を台に打ち付ける。生地が空気を抱きこむたび、部屋の匂いが甘くなる。


「もうすぐ焼けるわよ」


 俺は椅子の上で膝を揺らしながら、鼻先いっぱいに香りを吸い込む。

 父はいつもより早く帰ってきて、玄関で泥のついた靴を脱ぎながら笑っていた。


「おお、いい匂いだ」

「今日はあなたの好きな根菜の煮込みもあるわ。お腹を空かせて帰ってきたでしょう」

「領境の土手を見ていたからな。腹は狼だ」


 父のからかいに、母は肩で笑う。

 テーブルの上に並ぶのは、焼きたての丸パン、湯気の立つ煮込み、ハーブで和えた干し肉。金の器はない。けれど、銀のナイフがなくても、この家には十分な光があった。


「ライアン、祈って」

「……今日も、みんなで食べられることに感謝して。いただきます」


 手を合わせ、パンを割る。外は薄く固く、内側は湯気を逃がしながらふわふわに割れて、指先に小さな熱が跳ねる。ひと口齧ると、歯の裏側に小麦のやさしい甘さが広がって、思わず目を細めた。


「うまい」


 素直に出た声に、母が小さく満足げに頷く。

 父はレンゲですくった煮込みをふうふうと冷まし、俺の皿に少し多めによそってくれた。

 芋がほろりと崩れる。塩気は強くないのに、舌の奥がじんわり温かい。体にゆっくり火が灯るみたいだ。


「明日は水門の板を替える。春の増水でまた外れたら困るからな」

「人手は足りるの?」

「若いのを四人回した。……ライアン、お前も少し見に来るか?」


 俺は顔を上げた。父は冗談ではない目をしている。

 嬉しいのをごまかしたくて、わざと肩をすくめた。


「邪魔にならないなら」

「邪魔にはならん。見て、考えて、学べ。剣の構えと同じだ」


 テーブルの上に置かれた父の手の甲には、細かな傷がいくつも走っている。

 母がふっと目を細め、指先で傷の一本をなぞった。


「あなたは手当てを怠るから」

「忘れるんだ。お前がいつも覚えていてくれる」


 そんな他愛ないやりとりを聞いていると、胸の奥がゆっくり満ちていく。

 パンの香り、煮込みの湯気、薪の匂い。

 それらが混ざって、家というものの匂いになる。

 食後、皿を片づける音が小さく重なり、父と俺は炉端に座った。

 灰の中で赤く残った木炭が、虫の目のように瞬いている。


「ライアン」

「うん」

「人はな、腹が満ちている時にこそ、ものをよく考えられる」

「……」

「空腹は、怒りを大きくする。怒りは視界を狭くする。だからまず食え。食って、眠って、それから決めろ」


 父の声は静かだった。説教でも、自慢話でもない。

 俺は黙って頷く。炉の光で父の横顔に小さな皺が見える。笑う時に刻まれた皺だ。

 母が薄い毛布を持ってきて、俺の肩にそっとかけた。

 布の端から、庭の草の匂いがした。


「眠くなった?」

「……少し」

「じゃあ少しだけ。父さんの話は、明日も聞けるから」


 母の指が髪を梳く。まぶたが勝手に重くなる。

 眠りに落ちる直前、父の声が遠くで笑った気がした。

 その夜の夢は、パンの匂いと、焚き火の赤い点と、母の歌でできていた。


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