第009話「女神の声は毒だった」
――俺は、立っていた。
ただ、ぼんやりと。
そこに立っていた。
足の感覚が、ない。
自分の身体がまるで自分のものではないかのように、ふわふわとしている。
耳の奥ではキーンという、高い音が鳴り続けていた。
――合格。
セキュリティレベル9へのアクセス権限。
私の『脳』。
リゲル副総帥が口にした言葉の一つ一つが、現実感を伴わないまま俺の頭の中をぐるぐると回り続けている。
俺は、一体、何をしてしまったのだろうか。
ただ生き残るために。
クビにならないために必死に頭を捻って、元広告屋としての少しばかり汚いアイデアを披露しただけだ。
それなのになぜ、こんなことになっている?
そんなほぼ放心状態の俺に、リゲル様はふわりと天使のような笑みを浮かべて、椅子を勧めた。
「大仕事でしたね、アキラさん。ゆっくりしてください」
その声に俺はまるで操り人形のようにぎこちなく、近くにあったソファに腰を下ろした。
深く沈み込むような高級なソファ。
だが今の俺には、その感触すらもどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「――さて、立案と進言は終わりました。
当然、私はそれを承認しましょう。程度は考える必要がありますが。
さて。次の段階に入りましょうか、アキラさん」
リゲル様は、まるでチェスの駒を進めるかのように優雅な仕草で、デスクの上のインターホンに触れた。
その声は穏やかでありながら、絶対的な王の響きを伴っている。
「――各部門長に通達。
至急、この副総帥室に集まるようにお伝えください。
新しい部門長との顔合わせがあります」
「……あぇ?」
「あなたたち【黒銀】が指令を出した他の部門たち。
その長を呼び寄せています」
リゲルは俺に向き直ると、「面白くてたまらない」といった表情で言った。
各、部門長。
つまり俺が先ほど、知ったかぶりでプランの中に組み込んだ、あの物騒な名前の部署のトップたちが、
今からこの部屋に、やってくるということか。
「お互い、顔合わせをしないと信頼関係も生まれないでしょうし、ね?」
――にこり、と。
リゲル様は、完璧な笑みを浮かべている。
だが俺には、その笑みがまるで断頭台へと向かう囚人を見送る、慈悲深い聖職者の笑みのように見えた。
(……信頼、関係?)
冗談じゃない。
これからここに来るのはスパイの親玉とか、私設軍隊の隊長とか、マッドサイエンティストとか、そういう連中なのだろう?
どう考えても、俺のような「普通」のサラリーマンと、信頼関係など築けるはずがない。
むしろ、俺のプランに「出番がない」と書かれた、第四機密部の部門長あたりは、俺のことを快く思っていないに違いない。
「なんだこの新入りは」と、いきなり胸ぐらを掴まれたりしないだろうか。
いや――もっと静かに、そして確実に。
俺を社会的にあるいは物理的に、消しにかかってくるかもしれない。
恐怖がじわじわと、アドレナリンが切れかけた俺の心を再び蝕み始める。
胃がしくしくと痛みの予兆を訴え始めた。
「……あ、あの、リゲル副総帥」
俺は震える声で、何とか言葉を絞り出した。
「そ、その、部門長の方々というのは、一体どのような……」
「ああ、心配いりませんよ」
リゲルは、俺の不安を見透かしたように、優しく言った。
「全員、私の最高の部下たちで。
――最高の変人たちですから」
その言葉は俺の不安を和らげるどころか、
絶望のどん底へとさらに深く突き落とすのに、十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
変人。
この神の如き青年が、はっきりと「変人」と断言するほどの、人間たち。
一体、どんな化け物が、この部屋にやってくるというのだ。
俺はポケットの中の胃薬のシートを、
祈るように強く、強く握りしめた。
ごくり、と喉が鳴る。
やがて、副総帥室の重厚な扉が、静かに、ノックされた。
運命の扉が開く。
―――
ノックの後、重厚な扉が静かに開いた。
俺は、ごくりと喉を鳴らし、固唾をのんでその先を見つめた。
一体、どんな「変人」が、最初に姿を現すのか。
モヒカン頭にゴーグルをつけた、世紀末のような男か?
あるいは全身を機械に置き換えた、サイボーグか?
俺の貧弱な想像力が、ありとあらゆる「ヤバい奴」の姿を脳内に描き出していた。
だが、そこに現れた人物は俺のそんなちっぽけな想像など、遥か彼方に吹き飛ばしてしまうほど。
あまりにも、規格外の存在だった。
姿を表したのは、白いローブに身を包んだ一人の女性だった。
第一印象は清らかな巫女。しかし、すぐに修正することになる。
――いや、違う。
そんな、ありふれた言葉で表現できる存在ではない。
彼女は「神聖」そのものを、空気のようにオーラのように、身に纏っていた。
絹のように滑らかな黒髪。
陶器のように白い肌。
そして、全てを慈しむかのような穏やかな微笑み。
その美しさはもはや人間が持ちうる領域を、完全に超えていた。
まるで神話の中から抜け出してきた女神そのものだ。
歳は30に届くか届かないか、くらいだろうか。
俺は、そのあまりの神々しさにただ息をすることも忘れて、見惚れてしまった。
「只今、参上いたしました」
その声を聞いた瞬間、俺の背筋をぞくり、と言いようのない快感が走り抜けた。
おそろしく通る、澄んだ声。
だが、ただ美しいだけの声ではない。
その声には人の理性を魂の最も深いところから、優しくそして抗いようもなく蕩かしてしまうような、魔力が宿っていた。
もし、この声で、悪意を持って何かを囁かれたら。
俺はどんな無茶な命令でも、きっと「はい」と答えてしまうだろう。
全財産を差し出せと言われても、喜んで差し出す。
ビルから飛び降りろと言われたらきっと、窓に向かって走り出してしまう。
――まるで、麻薬だ。甘美な毒そのものだ。
「カスミさん。お早いお着きですね。ありがとうございます」
リゲル副総帥が柔らかく、そしてどこまでも丁寧な言葉で彼女を出迎えた。
その声で、俺は我に返る。
そうだ、彼女も、部門長の一人なのだ。
おそらくは、第一機密部【碧命】。
思想形成……つまりはプロパガンダを担うという、あの。
(……プロパガンダ?)
俺は目の前の女神とその言葉を結びつけて、全身が総毛立った。
馬鹿な。
これはプロパガンダなどという、生易しいレベルの話ではない。
この女はその存在だけで。
その声だけで、一つの宗教を創り出し一つの国すら動かせてしまえるだろう。
彼女が「白」と言えば、どんなに黒いものでも、人々はそれを「白」と信じて疑わない。
これは人の心を操る、最終兵器だ。
カスミ、と呼ばれたその女性はリゲルに向かって深く、そして優雅に一礼した。
その所作の一つ一つが、もはや芸術の域に達している。
「副総帥よりお召しがございましたらいかなる時も、いかなる場所へも。
――それで、こちらが?」
彼女の慈愛に満ちた瞳が、すっと俺の方に向けられた。
ひっ、と俺の喉が情けない音を立てる。
その瞳は値踏みするでもなく、警戒するでもない。
ただ全てを見通している。
俺という、しがないサラリーマンのちっぽけな人生も、
姑息な計算も、
そして心の奥底にある、家族への想いすらも全て。
俺はまるで魂を丸裸にされたかのような感覚に陥り、身動き一つ、取れなくなった。
「ご紹介します。
こちら、本日より第三機密部【黒銀】の部門長に着任された、木村アキラさんです」
「まあ……。この方が、新しい『頭脳』様に」
リゲル様の説明をうけて、水守カスミ部門長はふわりと、花が綻ぶように微笑んだ。
その笑みに、俺の心臓が大きく跳ねる。
だがその瞳の奥が全く笑っていないことに、俺は気づいてしまった。
彼女がリゲルに向ける視線は「忠誠心」という言葉では表現しきれない。
それはもっと絶対的で、もっと根源的な「信仰」そのものだった。
まるで自らが仕える、唯一無二の神を見上げるかのように。
そして俺に向けられた視線は……そう、まるで神の祭壇に供えられた、新しい供物を興味深そうに眺めているかのようだった。
「初めまして、木村様。
私は、第一機密部【碧命】にて、部門長を拝命しております、水守カスミと申します。
以後、よしなに」
「は、はひ……き、きむら、です……」
俺はどもりながら、何とかそれだけを返すのが精一杯だった。
たった一人。
まだ、たった一人の「変人」に会っただけで、俺の精神は、もう限界寸前だった。
――これがあと、3人?
俺は、これから始まる顔合わせという名の地獄を思い。
ただ絶望的な気分で、扉が次に開くのを待つしかなかった。
……扉の外に、気配がした。