第008話「参謀、正式承認」
時刻は、まだ15時前だった。
「……早すぎませんか、木村部門長?」
再び副総帥室の前に立った俺に、隣に立つ篠崎レイナが、わずかに人間的な響きを伴った声で囁いた。
リゲル副総帥に与えられた21時という期限までは、6時間以上も残されている。
――俺とて、そう思う。
あまりにも早すぎる報告は内容が伴っていなければ、ただの無能の証明にしかならない。
それが、俺のサラリーマンとしての常識だったはずだ。
しかし、今で無ければならない理由が、ある。
「アドレナリンが切れる前に、全部終わらせたいんです……」
俺はか細い声でそう返すのが精一杯だった。
「どうぞ」
という凜とした声と同時に扉が、静かに開く。
再び通された俺たちを見て若き王――相川リゲルは、わずかに目を見開いた。
――そして、次の瞬間。
「……く、ふふっ……あははっ!」
クスクスと、堪えきれないといったように、楽しそうな笑い声がその完璧な唇から漏れた。
その顔は、まるで面白い悪戯を見つけた天使のようだ。
気品に溢れ。
ただ笑っているだけで周囲の空気を支配する、カリスマの塊。
その神々しいまでの光景に俺はただ、額に脂汗を浮かべながら、直立不動でいることしかできなかった。
正直この一時間半は、俺の人生で最も濃密でそして最も脳が沸騰した時間だった。
第三機密部【黒銀】は俺がいままで見たこともないほど、いや、俺が想像しうる限り最も優秀な集団だ。
俺が企画の骨子を説明し、「例えば、敵企業の主要な取引先とか、その物流ルートとか……」と言いかけただけで。
レイナが「対象の主要取引先百社のリストアップおよび、今後三ヶ月間の物流ルートの予測を」と即座に俺の意図を汲み取り、的確な指示を部下たちに飛ばす。
すると、数分も経たないうちに、巨大スクリーンに、世界地図と、そこに網の目のように張り巡らされた、完璧な物流予測データが表示されるのだ。
俺が「オルレアンCEOの、世間でのイメージは……」と呟けば、次の瞬間には、世界中のSNSやニュースサイトをリアルタイムで解析した詳細な感情分析レポートが、俺のタブレットに送られてくる。
まるで、俺自身が一つの巨大なスーパーコンピューターのCPUになったような気分だった。
俺が曖昧な命令を出すだけで、レイナという完璧なOSがそれを最適化し。
【黒銀】の職員たちという超高性能なメモリとストレージが、瞬時に答えを弾き出していく。
俺がやったことと言えば、広告屋として培った、ほんの少しの「発想の転換」を提示しただけだ。
それを、この恐るべき天才集団が数時間で、完璧な「実行可能プラン」へと昇華させてしまったのだ。
「……お聞かせいただいても?」
リゲルの笑いを含んだ声が、俺を現実へと引き戻した。
俺は、ごくりと唾を飲み込む。
今しかない。
この勢いを失って、冷静で常識的なしがないサラリーマンの木村アキラに戻ってしまったら。
こんな、あまりにも突拍子もない作戦を、この神のような男の前で二度と口にすることなどできなくなるだろうからだ。
俺は意を決して口を開いた。
それぞれの部門にどのような人間がいて、どれほどの力があるのか。
俺にはまださっぱり分からない。
ただレイナから聞いた、ごく基本的な情報だけを頼りに俺はこの狂った組織の軍勢を、動かすためのプランを語り始めた。
「――以上が、私の立案した、『対ユーロ・クロノス社・企業ブランドイメージ失墜キャンペーン』の全貌です」
全てを説明し終えた時、俺は、ほとんど酸欠に近い状態だった。
第一機密部【碧命】は思想形成、つまりはプロパガンダの専門家集団。
彼らに、オルレアンCEOの「クリーンな慈善家」というイメージを覆す、新たな「物語」を創造してもらう。
第二【紅夜】は諜報――スパイとか、工作員とか。
彼らに、我々が作った「疑惑の種」を世界中のメディアや市場に、巧妙にそして効果的にばら撒いてもらう。
第四【白閃】は、私設部隊。
今回のプランでは、直接的な出番はないかもしれない。
だが、敵が非合法な手段で報復してきた際のカウンターとしての「暴力」をちらつかせる、抑止力としての役割を担ってもらう。
そして第五【灰都】は、科学とかいろいろ、らしい。
彼らの持つハッキング技術で敵の足元を、ほんの少しだけ揺さぶってもらう。
サプライチェーンへの偽装事故による攻撃、
マニュアルの誤訳による内部からの信頼性破壊、
市場への疑惑の種まき、
そして戦略的資源の独占。
その全てを最小の予算で、同時並行にそして静かに実行する。
我ながらあまりにも陰湿で、狡猾な作戦だ。
相手は総資産六十兆円を超える巨大な帝国。
そんな相手に俺が提案したのは、正面からの殴り合いではなく。
無数の小さな蟻に、巨大な象を内側から蝕ませるような、あまりにもちっぽけな作戦だった。
スケールと照らし合わせれば、馬鹿なことを言っているのは、自分でも分かってる。
――でもこれが、俺の全力だった。
俺は固唾をのんで、リゲルの反応を待った。
嘲笑かあるいは、失望か。
どちらにせよ、まともな評価が下されるとは思えなかった。
副総帥室は静まり返っていた。
リゲル様は、何も言わない。
ただその美しい指先で、テーブルをとんと一度だけ、軽く叩いた。
その顔から、先ほどまでの天使のような笑みは完全に消え失せていた。
代わりに浮かんでいたのは底知れない、神の如き冷徹な分析者の顔。
その蒼い瞳が俺の心の奥底まで全てを見通しているようで、俺は息をすることすら忘れた。
「……面白い」
やがてリゲル様は静かに、そう呟いた。
「実に面白い。
ただ、あなたのプランは一つ、重要な点を見誤っています」
「……!」
ダメだったか。
俺ががっくりと肩を落としかけた、その時。
「――あなたは我々が持つ『力』の規模を、あまりにも過小評価している」
リゲル様は、続けた。
「あなたの言う『小石程度の攻撃』プランに対し、【紅夜】や【灰都】の連中が本気を出せば――、それはもはや小石ではなくなります。
直径数キロの隕石となって敵の頭上に降り注ぐことになるでしょう」
――え?
「あなたの言う『疑惑の種』は、第一機密部【碧命】の手にかかれば一夜にして、誰もが信じる『真実』へと変わります。
……あなたのプランの唯一の欠点は、即効性がないことではなありません。
むしろ逆です。
あまりにも、効果がありすぎることです」
リゲルの言葉の意味を俺は、すぐには理解できなかった。
――効果が、ありすぎる?
「あなたのプラン通りに実行すれば、【ユーロ・クロノス】社はおそらく、七日と持たずに市場から消滅するでしょう。
我々は八岐重工を守りたいのであって、市場を無用に混乱させたいわけではないのです」
「……あ……」
「だがその発想、その視点は素晴らしいです。
財閥組織という、金と力で全てをねじ伏せることしか考えていなかった私達には、思いつきもしなかったやり方です」
リゲル様はすっと立ち上がると、俺の目の前まで歩み寄ってきた。
そして、その神々しい顔を俺の耳元にゆっくりと近づけた。
「――合格です、木村アキラさん」
その囁きにも似た声が俺の鼓膜を震わせた。
「彼に、セキュリティレベル9へのアクセス権限を与えましょう。
私の『脳』には、許される限りの情報を見る権利があります」
「……! かしこまり、ました」
隣に立つレイナが、息を呑む気配がした。
「さあ、始めましょう、アキラさん」
リゲルは、悪戯っぽく笑った。
「あなたのその『常識』という名の、最も予測不能な兵器で。
この退屈な世界を、もっと、もっと面白くしてください。
――そして、私達と共に戦いましょう」
「たたかう……?」
「はい。これはまだ、序章に過ぎません」
そういったリゲル様の顔には、得体の知れない敵に対する決意が浮かび上がっていた。
「その話は、追々。――でも、まずは。
あなたを手に入れられて、本当に良かった」
俺はただ、その場で立ち尽くすことしかできなかった。
胃の痛みはまだあるが、随分と引いた。
――代わりに俺の心臓を、
未知への興奮と、とてつもない恐怖が、同時に鷲掴みにしていた。




