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第007話「火のないところに煙を立てろ」

 篠崎レイナが漏らした「素晴らしい」という賞賛の言葉。


 それは俺が48年のサラリーマン人生で、どのクライアントからもどの上司からも一度も貰ったことのない種類のものだった。

 

 社交辞令や建前など一切ない、純粋な驚愕と畏怖が込められている。

 ――今まで上司から褒められると言っても、「とりあえず無難だったな」の一言くらいだったというのに。


 俺のしがない中間管理職として培ってきたスキルがこの、常識の通用しなさそうな世界で、初めて認められた瞬間だった。

 アドレナリンが脳内で沸騰する。

 胃の痛みも恐怖も今はどこか遠くにあった。


 もっとやれる。

 俺の「常識」は、この狂った世界で、もっと大きな武器になるはずだ。


 たった数分で考え出した俺の策に、レイナは驚きを隠せないようだった。

 だが彼女はそれでも冷静だった。


 さすがは、2年もの間、この地獄のような部署を一人で回してきただけのことはある。

 すぐに氷の仮面を被り直し、プロフェッショナルとしての視点で、俺のプランの穴を指摘してきた。


「ただ、これには問題があります……。

 即効性がないこと、です」


 ――その通りだった。

 俺の考えたプランはどれもボディブローのように、じわじわと相手の体力を奪うものばかりだ。

 相手が明確な「攻撃」として認識した頃にはもう手遅れになっている、というのがこの作戦の肝。


 だが、それには時間がかかる。

 数週間。いや、数ヶ月は必要だろう。

 敵対的買収という、時間との勝負においてそれは致命的な欠陥になりかねない。


 しかし、レイナのその的確な指摘も今の、アドレナリンドバドバ状態の俺の頭脳の前では、新たな燃料にしかならなかった。

 そうだ、即効性。

 それさえ加えれば、俺のプランは完璧になる。

 俺は勢いに任せて、次なる作戦を口にしていた。


「ハッカーは機密部にはいないんですか?」

「第二と第五にそれぞれいますが……」


 レイナが、わずかに眉をひそめる。

 おそらく、彼女が想定していたのはもっと物理的で、直接的な攻撃手段だったのだろう。

 第四機密部による「物理的介入」といった、穏やかじゃないやつだ。

 ――だが、俺の戦い方は違う。


「何でもできるのでしょう?」


 俺は、先ほどレイナが言った言葉を、そのまま彼女に返した。


「……なら、効果的に小石程度の攻撃を開始させてください。デジタル経済誌や暴露系のリークメディアに、匿名のタレコミを流すんです。

 『ユーロ・クロノス社、環境保護を謳いながら、実はアフリカの工場で深刻な土壌汚染を引き起こしている疑惑』とか、

 『オルレアンCEO、慈善活動の裏で、タックスヘイブンを利用した悪質な節税』とか。

 証拠はなくていい。ただの『疑惑』で十分です」


 これも俺が広告業界で学んだ、ダーティなテクニックの一つだ。

 ――火のないところに、煙だけを立てる。


 一度ついたネガティブなイメージは、たとえ後からそれがデマだと証明されても決して完全には消えない。

 人々の記憶の片隅に黒いシミのように、ずっと残り続けるのだ。


「記事を予め、こちらで作成した状態で複数のメディアに同時に流せば、向こうの対応も後手に回ります。

 もちろん、我々の足跡は掴ませないように。

 第二機密部のプロなら、簡単なことでしょう?」

「……それは、可能ですが」

「それだけじゃない。

 第五機密部のハッカーには、ユーロ・クロノス社のオンライン株主総会のシステムに、ほんの少しだけ、干渉してもらいたい」


「……何をするおつもりですか?」

「オルレアンCEOが、最も自信満々に最も重要な業績を発表する、その瞬間に。

 彼のマイクの音声がほんの数秒だけ、途切れるようにするんです」

「……音声トラブル、ですか?」

「ええ。誰がどう見ても、ただの機材トラブルです。

 ですが、株主たちの心には、どう映るか。


 『何か、不都合なことでもあるのか?』

 『何かを隠そうとしているのでは?』。


 そんな小さな、小さな疑念の種を植え付ける。

 それだけでいいんです」


 ――俺は、言い切った。

 物理的な破壊ではない。サイバー攻撃ですらない。

 ただ人の心を、ほんの少しだけ揺さぶるだけだ。

 だがその小さな揺さぶりこそが、やがて巨大な堤防を崩壊させる最初の一滴になる。


 レイナは、黙り込んでいた。

 その氷の瞳の中で、凄まじい速度で何かが計算されているのが俺には分かった。

 俺の提案の実現可能性。リスク。

 そして、その効果。


 彼女はこの数分間で、俺という「普通のおっさん」に対する評価を、根本から覆すことを余儀なくされていたのだろう。



 ……やがて彼女は、ふぅ、と。

 ごく小さな、ほとんど聞こえないほどの溜息を、一つだけ漏らした。

 

 それは、諦めか、それとも感嘆か。


 そして、顔を上げた彼女はもはや俺を「得体のしれないただの馬の骨」としてではなく、共に戦うべき「指揮官」として、まっすぐに見据えていた。


「……副部門長が納得なされるなら、資料をまとめさせてください。リゲル様に進言します」


 俺の言葉を、彼女は遮らなかった。

 俺が彼女に求めたのは「同意」ではなく、「納得」だ。

 彼女がそのプロフェッショナルとしての判断で、俺の作戦を「実行可能かつ有効」だと認めるのならば、俺はそれを正式なプランとして上に上げる、と。


「異論、ありますか?」


 俺は、彼女に判断を委ねたのだ。

 その意図をこの優秀すぎる副官は、正確に読み取っていた。


「……いいえ」


 レイナは、静かに首を横に振った。


「異論ありません。

 これより、

 本プランを第三機密部【黒銀】の正式な作戦案として、リゲル様に進言するための最終資料を作成します。

 ……木村部門長。ご指示を」


 その言葉は、俺のこの狂った世界における、

 最初の勝利宣言だった。


 胃が、痛い。

 だが悪くない。


 ――全然、悪くない気分だった。

 

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