第006話「広告屋の戦争術」
篠崎レイナの氷の仮面が初めて、ほんのわずかに揺らぐ。
俺はその微かな変化を見逃さなかった。
好機だ。
今この流れを、俺の土俵に引きずり込む。
広告代理店で無理難題を吹っ掛けるクライアントを相手に、何度も繰り返してきた「プレゼンテーション」という名の戦場へ。
『対ユーロ・クロノス:企業ブランドイメージ失墜キャンペーン』
それが、俺が考えた策だった。
「……キャンペーン?」
「ええ。現状の策では、企業間戦争のやり方を間違えています」
俺はプレゼンターとしてのスイッチを、意識的にオンにする。
背筋を伸ばし声を張り、相手の目を見て自信に満ちた態度で語りかける。
――たとえ、内心では胃がキリキリと痛み、今にも倒れそうだったとしても。
「我々が戦うべき相手は、【ユーロ・クロノス】という企業そのものではない。
ジャン=ピエール・オルレアンが長年かけて築き上げてきた『クリーンな慈善家』という、ブランドイメージです。
彼の最大の武器は金でも会社の規模でもない。その『信用』なんです。
――ならば、我々がやるべきことは一つ。
その化けの皮を、徹底的に、完膚なきまでに剥がし、社会的な信用を失墜させることです」
俺は息継ぎもせずに言い切った。
レイナは黙って俺の言葉を聞いている。
その表情は、再び氷の仮面の下に隠されてしまった。
――だが、それでいい。ここからは俺の独壇場だ。
「具体的なプランは4つ。
全て段階的に並行で、秘密裏に。
そして、じわじわと相手の体力を削るように実行します。
派手なドンパチは、必要ありません」
俺は、タブレットを操作し、
リアルタイムで補助AIにプランの補足をさせる。
【第一段階:サプライチェーンへの限定的攻撃(納期遅延チェーン)】
「まず、彼らの主力製品の生産計画を、物理的に狂わせます。
第二機密部の情報網を使えば、ユーロ・クロノス社がどのサプライヤーから、どの部品を、いつ、どの航路で調達しているか、全て割り出せるはずです。
その重要な部品を積んだコンテナ船が、ちょっとしたエンジントラブルで、2週間ほど港に足止めを食らう。
あるいは、特殊な合金を運ぶ運送会社が突然、国税局の査察を受けて、全てのトラックが数日間動けなくなる。
――どれも、表沙汰になれば『不運な事故』でしかない。
ですが、これらの小さな事故が、彼らの生産ラインを確実に、静かに、蝕んでいきます」
【第二段階:内部からの信頼性破壊工作(マニュアル誤訳・回覧漏れ)】
「製品の信頼性そのものを内部から破壊します。
例えば、500ページある精密機械の組み立てマニュアル。
その中の一か所だけ、締め付けトルクの数値が小数点1つ分、間違って翻訳されていたら?
あるいは、重要な安全規定の改訂通達が、『手違いで』海外の主力工場にだけ、届かなかったとしたら?
小さな、本当に小さなミスです。ですが、それはやがて致命的な製品の欠陥や、リコール騒ぎ。
あるいは生産現場での事故に繋がる。
彼らが誇る『最高品質』というブランドイメージは、地に堕ちるでしょう」
【第三段階:市場への疑惑・噂話の種まき】
「三つ目は、市場と株主の不安を、徹底的に煽ることです。
これも、第二機密部の得意分野でしょう。
大きな嘘は、必要ない。
『ユーロ・クロノス社の新型バッテリー、ちょっと発火しやすいらしいよ』『CEO、買収が成功したらヨーロッパの従業員をリストラする計画があるらしい』。
そんな、真偽不明のしかしありえそうな噂を、投資家向けのネット掲示板や、三流の経済誌に少しずつ、計画的にばら撒く。
疑惑は、ウイルスです。一度広がれば、誰も止められない」
【第四段階:戦略的資源の独占(在庫抱え込み)】
「そして、最後の仕上げです。
【八岐重工】も【ユーロ・クロノス】も、ある特定のレアアースを必要としている。
――ならば話は簡単です。
財閥の力で世界中の市場からそのレアアースを、今後半年分全て買い占めてしまえばいい。
数十社のダミー会社を使えば誰が買い占めているかも分からない。
我々は必要な資源を確保し、敵は金があっても、物が作れない状況に陥る。物理的な生産停止です」
俺はそこで一旦、言葉を切った。
部門長室は静まり返っている。
聞こえるのはサーバーの静かな駆動音と、俺自身の少し上ずった心臓の音だけだ。
レイナは動かない。
ただ、その氷の瞳で、スクリーンに映し出された俺のプランを食い入るように見つめている。
「……そして、篠崎副部門長」
俺は、最後のダメ押しをする。
タブレットを操作し、スクリーンに、現在提示されている作戦予算と、俺が算出した今回のキャンペーン予算を、並べて表示させた。
「何より、このプランの最大のメリットは……これら全てを実行しても、『予算が、既存の計画の、50分の1以下に収まる』ということです。買い占め以外はほぼ予算が掛かりません」
その瞬間。
レイナの氷の仮面が、今度こそはっきりと音を立てて砕け散った。
彼女の瞳が驚愕と、信じられないというような困惑と。
そして、ほんのわずかな……畏怖のような色を浮かべて大きく見開かれた。
「……これが、あなたの」
「ええ。俺の、やり方です」
俺は、広告代理店のしがない中間管理職として、長年培ってきた――、
姑息で、狡猾でそして唯一俺が誇れるスキルを、今この世界の中心で解き放ったのだ。
金と力で正面から殴り合うのではない。
情報の流れを操り人の心を動かし、最小のコストで最大の効果を上げる。
ブランドを、社会的に、完膚なきまでに叩き潰す。
それこそが、俺の「戦争」だった。
「……素晴らしい」
レイナが、絞り出すよう呟いた。
その声はもはや氷の冷たさではなく、目の前の異常な才能を目の当たりにした、一人のプロフェッショナルとしての純粋な戦慄に震えていた。
アドレナリンが、全身を駆け巡る。
だが、その高揚感と同時に俺はとてつもない現実に気づいて、再び背筋が凍るのを感じていた。
(……俺は今一体、なんてプランを……)
多国籍企業に対する計画的で、陰湿で、そして極めて効果的な企業テロ。
俺はそんな計画を、この数十分で当たり前のように立案してしまったのだ。
胃がまた、
新しい種類の痛みできりりと、悲鳴を上げた。




