第005話「凡人の武器」
「時間は……30分で。できるか?」
俺のほとんど無茶に近い要求に篠崎レイナは、やはり一切の表情を変えなかった。
ただ、その氷のような目が俺の覚悟のほどを値踏みするかのように、すっと細められただけだった。
「承知いたしました。
では、これより当案件のブリーフィングを開始します」
彼女がデスクのタブレットに触れると、部門長室の巨大なモニタースクリーンに、無数のデータとグラフが浮かび上がった。
その情報の奔流に、俺は一瞬で気圧される。
――それでも、ここで引くわけにはいかない。
「その前に、一つ確認させてくれ」
俺は彼女の言葉を遮って口を開いた。
レイナの眉が今度こそはっきりと、不快そうにひそめられる。
――だが、知ったことか。
俺は、ここの部門長になったんだ。
「……【八岐重工】の規模をお聞きしたい」
正直、めちゃくちゃ有名な企業だ。
自転車から戦闘機まで作ると言われる、日本を代表する総合重工業メーカー。
それが相川財閥の傘下企業でしかないというのも、改めて考えるとスケールが違いすぎる。
俺がいた広告代理店なんて相川財閥の子会社の子会社の子会社、だったんだぞ。
この八岐重工の数ある取引先の、ほんの一つに過ぎなかったのに。
「【八岐重工】の昨年度の連結売上高は、約10兆円。総資産は20兆円を超えます」
「じっ、ちょう……」
「はい。ですが、【ユーロ・クロノス】は、その3倍以上の規模を持つ多国籍複合企業です。資金力では、こちらが圧倒的に不利な状況にあります」
レイナは、淡々と事実を述べる。
その言葉の重みに、俺はめまいがした。
ファイルに書かれていた120億円という金額が、もはやはした金に思えてくる。
「それにしても……予算が……。
こんな、まるで湯水のように金を……」
「ですから、リゲル様はあなたの進言をお聞きしたいのだと考えられます」
レイナは冷静だった。
その瞳はまるで「そんなことも分からないのですか」と、俺の無能さを責めているかのようだ。
「あなたは【ブリニニア】で唯一、頭を下げて謝罪を行うことを選択した者です。
それがリゲル様の琴線に触れたのでしょう」
「……琴線に、触れた?」
意味が分からない。
あの時俺がやったことなど、万に一つの可能性に賭けた、ただの土下座だ。
サラリーマンなら誰だってやる。
――いや、あの状況ならやるしかない。
「リゲル様は、結果よりもプロセスを重視されることがあります。
特に、人の『覚悟』を。
あなたは、自らのプライドとキャリアを賭けて、たった一人で頭を下げた。
上司、役員たちが責任をなすりつけ合っている間に。
……その行動は、我々から見ても極めて『合理的』でした」
合理的、だと?
あの、みっともない土下座が?
価値観が、違いすぎる。
俺が今までいた世界とは何もかもが、根本的に違う。
俺は混乱する頭を必死に働かせ、一つの核心的な質問を口にした。
「……君たちは、何ができる?」
俺の問いにレイナは、ほんの少しだけ間を置いた。
そして今までで最も冷たく、最も力強い声でこう答えた。
「他の機密部の力も借りるのなら、言葉通り――何でも」
ぞくり、と。
背筋に、悪寒が走った。
何でも、可能。
その言葉が意味するものの、恐ろしさ。
それは希望の言葉などではない。
法も倫理も、国境すらも、
この組織の前では何の意味も持たないという、絶対的な力の宣言だ。
――俺は、とんでもない連中の「頭脳」に、なってしまったのだ。
「……ブリーフィングを、続けてくれ」
俺は、乾いた唇を舐め、そう言うのが精一杯だった。
そこからの三十分は、まさに地獄だった。
レイナの説明は、完璧だった。
完璧すぎて、俺の頭が全くついていかない。
敵対的買収を仕掛けてくる【ユーロ・クロノス】の組織構造、資金源。
CEOの経歴、買収の具体的なスキーム。
そして、それに対するこちらの防衛策の選択肢。
第二機密部【紅夜】が収集したという、およそ表には出せない情報。
第四機密部【白閃】が準備しているという、穏便とは程遠い「実力行使」のプラン。
俺は必死にメモを取ろうとした。
だが俺のサラリーマンとしてのスキルは、この異次元の情報戦の前ではあまりにも無力だった。
――ただ、一つだけ分かったことがある。
提示される選択肢の全てが結局は「もっと金を使う」か「もっとヤバいことをやる」かの、二択でしかないということだ。
これではただの消耗戦だ。
泥沼の殴り合いだ。
たとえ勝ったとしても、得るものより失うものの方が多いのではないか。
(……ダメだ。これじゃ、ダメだ)
――俺は頭を抱えた。
八時間どころか、八十年かけても、俺に正解など導き出せるはずがない。
胃が、痛い。
いっそ、このまま意識を失ってしまえたら、どれだけ楽だろうか。
(待てよ?)
その時、俺の脳の普段は全く使っていない領域が。
ふと、かすかな光を放った。
広告代理店。
そうだ。
俺は、広告屋だったじゃないか。
俺たちの仕事は、モノを売ることじゃない。
モノの「価値」を伝え、「物語」を作り。
人々の「認識」を動かすことだ。
――金と力で殴り合うだけが、戦争じゃないはずだ。
「……なあ、篠崎副部門長」
俺は、顔を上げた。
「はい。何でしょう」
「この敵のCEO。
ジャン=ピエール・オルレアン。
こいつは、世間ではどういう評価なんだ?」
「……評価、ですか?」
レイナは、怪訝な顔をした。
「冷徹な経営者ですが、同時に環境保護活動に熱心な慈善家としても知られています。
メディアへの露出も多く、クリーンなイメージ戦略で成功を収めている人物です」
「……クリーン、ね」
俺は、にやり、と。
柄にもなく、不敵な笑みを浮かべていた。
胃の痛みは、まだある。
――だが、さっきまでの絶望的な痛みとは少しだけ、質が変わっていた。
「――そいつの化けの皮を剥がしてやろうじゃないか」
俺は広告代理店【ブリニニア】の中間管理職として培ってきた、
姑息で、狡猾で、そして唯一俺が誇れるスキルを行使する覚悟を決めた。
「――最高のネガティブキャンペーンで、社会的に叩き潰すプランがある」
俺の言葉に氷の女、篠崎レイナの瞳が初めて、
驚きに見開かれた。