第035話「居場所の証明」
第四機密部の拠点から第三機密部のオフィスへ。
同じビルの中にあるその、横に僅かで縦に長い距離が今の俺には――、あまりにも遠く感じられた。
エレベーターが上昇していくその時間ですら、俺の心は鉛のように重く沈んでいく。
獅亞鈴から突きつけられた、無能の烙印。
王隠堂残月から言い渡された、指揮系統の拒絶。
そして一条トウカのあの視線。
俺は、完全に彼らの信頼を失ったのだろう。
いやそもそも、信頼など最初から存在しなかったのだ。
リゲル様の鶴の一声で、その場は収まった。
だが俺という、司令官が機能不全に陥っていることは、誰の目にも明らかだった。
その事実はきっと、もう第三の職員たちにも伝わっているだろう。
彼らは優秀だ。
俺が司令室を離れていた僅かな時間で、今回の作戦の全てを分析し。
俺の采配がいかに杜撰で、危険なものであったかを完璧に理解しているに、違いない。
これから俺を待っているのは、なんだろう。
あからさまな無視か。
影での嘲笑か。
あるいはもっと直接的な、不信任決議案のようなものが――、俺のデスクの上に置かれているのかもしれない。
俺はこれから、軽蔑の海の中をたった一人で泳いでいかなければ、ならないのだ。
胃が、痛い。
もはや痛みというよりも、俺の身体の一部としてそこにあるのが当たり前になってしまった。
重い足取りで、俺は第三機密部の拠点の扉の前に立つ。
覚悟を決めろ。木村アキラ。
これもまたお前の仕事なのだ。
俺は深呼吸を一つして、自らの戦場へと足を踏み入れた。
その瞬間。
俺の耳に届いたのは罵声でも嘲笑でもなかった。
――ぱちぱちぱち。
最初は誰か一人が始めた、小さな拍手。
それが瞬く間に、フロア全体へと伝播していく。
やがてそれは大きな拍手の渦となり、司令室の空気を震わせた。
俺は、目の前の光景が信じられず、ただ呆然と立ち尽くす。
フロアにいた三十人以上の職員全員が立ち上がり、俺に向かって惜しみない拍手を送っていたのだ。
その顔には昨日までの疑念の色はない。
そこにあるのは、純粋な称賛と。
そして心からの歓迎の光だった。
「――素晴らしいご采配でした! 部門長!」
オペレーターの一人が興奮した様子で叫んだ。
「初の対歪鬽災害司令で、民間人の死傷者ゼロは前代未聞の快挙です!」
「獅亞鈴の投入タイミングも完璧でした。あと数分遅れていれば、第四の主力部隊に死者が出ていた可能性があります」
「ええ。加えて王隠堂隊員を民間人保護に回した、あの判断。結果的に集落の避難完了時間を十分以上も早めました」
今まで物言わぬ機械の部品だと思っていた、超エリートたち。
認められることなど決してないと思っていた部下たちからの、明らかな称賛の声。
俺の脳はその状況を全く処理できなかった。
俺は、失敗したのではなかったのか。
俺は、無能だと罵られたのではなかったのか。
俺が、混乱の極みで立ち尽くしていると、すっと俺の隣に篠崎レイナが立った。
その氷の仮面の下で彼女の瞳が、わずかに揺れているのを俺は見逃さなかった。
そして彼女の口から紡がれたのは、俺が最も予想していなかった言葉だった。
「……わたしも、最初の数回は力及ばず。――民間人を守りきれなかったのです」
その声はか細く、そしてどこか震えていた。
それは彼女が俺に初めて見せた弱さであり。
そして、彼女が俺に贈った最大限の賛辞に聞こえた。
「あなたが今回、最優先事項として民間人の保護を掲げ、そしてそれを最後まで貫き通したからこその結果です。
それができたのは木村部門長、あなたの功績です。
……第三機密部の副部門長として、心からお礼を申し上げます。
――お見事でした」
彼女はそう言うと、俺に向かって深く。そして完璧な角度で頭を下げた。
その彼女の行動を合図に、フロアにいる全員が再び。
俺に向かって、一斉に頭を下げる。
目の前で繰り広げられる光景に俺は、もう何も言えなかった。
……そうだ。
俺は忘れていたのだ。
この第三機密部【黒銀】もまた、リゲル様のために戦う組織。
そして、彼らの物差しは第四【白閃】のそれとは全く違う。
彼らが重視するのは、戦術的な勝利ではない。
財閥統合戦略室全体の、そしてリゲル様の目的を達成するための、戦略的な勝利なのだ。
人的被害を最小限に抑え、民間社会への影響をゼロにし。
そして完璧なカバーストーリーの元に全てを終わらせる。
俺はそれを成し遂げた。
たとえ、そのプロセスがどれだけ泥臭く、格好悪かったとしても。
結果として俺は、この組織が求める最高の答えを導き出したのだ。
俺の目から熱いものが込み上げてくるのを、止められなかった。
俺はここで認められたのだ。
俺はもう一人ではない。
この最強の頭脳集団が俺の仲間なのだ。
その事実が俺の凍り付いていた心を、ゆっくりと溶かしていく。
胃の痛みはいつの間にか消えていた。
代わりに、そこには温かい何かがじんわりと広がっていくのを、感じていた。
俺の新しい日常は、地獄のような場所だと思っていた。
だが、もしかしたらそうではないのかもしれない。
俺は、初めてこの狂った世界で自分の居場所を見つけたような気がした。




