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第034話「若き狙撃手の光」

 ――どれだけ、時間が経っただろうか。

 

 あの嵐のようなデブリーフィングが終わり、皆が去っていった後も、

 俺は第四機密部のブリーフィングルームで一人……放心していた。


 冷たいパイプ椅子に深く腰掛け、ただぼんやりと、何も映っていない巨大なモニターを見上げる。

 頭が、働かない。

 今日一日で起きた出来事があまりにも多すぎて、俺の脳の処理能力を完全に超えてしまっていた。


 歪鬽の群れ。

 失敗しかけた作戦。

 死の淵を彷徨ったかもしれない若者たち。

 そして知性を持つ第一級歪鬽から俺に突きつけられた、司令官失格の烙印。


 スー亞鈴アーリンの、あの軽蔑しきった瞳が脳裏に焼き付いて離れない。

 俺は一体、何のためにここに来たのだろう。

 リゲル様におだてられて、ただ全てをめちゃくちゃにしてしまっただけではないか。


 ……そんな無力感と自己嫌悪が、ずしりと重く俺の全身にのしかかっていた。


「まだいたんだ? もう十七時だよ」


 不意にかけられたその声に、俺ははっと顔を上げた。

 部屋の入り口に、一人の青年が立っていた。


 武雷ぶらい咬威かむい

 あの、のほほんとした雰囲気の狙撃手。俺が使い切れなかったカードの一つだ。


 彼は黒い戦闘服からラフな私服へと着替えていた。

 肩には大きなギターケースが担がれている。

 その姿はもはや戦士ではなく、これからバンドの練習にでも向かう、ごく普通の大学生にしか見えなかった。


 彼だけが、この狂った組織の中で唯一、俺の知っている日常の匂いを纏っているような気がする。


「まだ落ち込んでるの?」


 咬威くんはずかずかと部屋に入ってくると、俺の前の椅子にどかりと腰を下ろした。

 その屈託のない瞳に、俺は思わず目を逸らしてしまう。


「……ああ。まあ、な」


 俺は力なく答えた。

 彼に合わせる顔がなかった。

 俺のせいで、彼もまた危険な目に遭いかけたのだ。


 ――しかし、咬威くんの反応は俺の予想に反していた。


「俺は悪くないと思うけどな。アキラさんの判断」

「え……?」

「結果は芳しくなかったかもしれないけどね。

 実際あの時現場にいた俺の感覚だと、十体までならあのレベルの歪鬽でも俺とカナトさんと視天くんでなんとかできそうだった。

 三十体以上は、さすがに無理だろうけど」


 そのあまりにも意外な言葉に、俺は驚いて顔を上げた。

 彼は俺を責めていない。

 それどころか、俺の判断を擁護してくれている。


「何より、出撃時にわざわざ俺たちに会いに来てくれたし。

 あれ、結構嬉しいことなんだよ。

 特に俺なんて正式な戦士じゃない、ただのテスターだからさ……。

 でもあの時、あんたの顔見て覚悟決まったっていうか。勇気もらったんだ」


 その言葉は、俺のささくれだった心にじんわりと染み込んでいった。

 俺がただの自己満足だと思っていたあの行動。

 それがこの若者の心に届いている。


 それだけで、俺は少しだけ救われたような気がした。


「……ギター弾くのかい?」


 俺は少しだけ照れくさくなって、無理やり話題を変えた。

 彼の肩にあるギターケースを指差しながら。


 すると彼は、にっと悪戯っぽく笑った。


「ううん。これの中身は俺の相棒」


 え。


「競技用のライフルだよ」

「……そうか」

「一応これでもエアライフルの競技者でね。

 最年少の世界記録も持ってるんだ。相川財閥の企業チームにも所属してるし、知る人ぞ知る有名選手なんだよ、俺」


 彼は少しだけ自慢げにそう言った。

 その姿は年相応の若者そのものだった。

 だが俺は知っている。

 その、のほほんとした雰囲気の裏側で、彼がどれほどのプレッシャーと向き合っているのかを。


 俺は思わず、心の奥底にあった疑問を口にしていた。


「……君は怖くないのか? 歪鬽と戦うことは」


 歪鬽という不条理な存在。

 死がすぐ隣にある戦場。

 恐らく若い頃から何年も訓練してきたであろう神しんかいカナトや正中せいちゅう視天してんとは違う。

 目の前の青年は、もっとこっち側の人間のはずだ。


 俺のその問いに、咬威くんは一瞬だけ遠い目をした。

 そしてすぐに、いつもの彼らしい穏やかな笑みを浮かべて答えた。


「……怖いさ。もちろん怖いよ。

 俺だって歪鬽が見えるようになったのはまだ一年前だし、夜中にトイレに行くのだってまだちょっと怖い」


 その言葉に、俺は少しだけ笑ってしまった。


「でもね、アキラさん」


 彼は続けた。

 その瞳は真っ直ぐに俺を見据えていた。


「――力を持ってるのに怖いって理由で戦わずにいて、もしそれで自分の大切な人が死んじゃったら、――って考えちゃうとさ、そっちの方がもっと怖いんだよね。

 俺には、たまたま銃の才能があった。歪鬽を見る能力も後天的にだけど得ている。

 それなら、それを使って歪鬽から普通の人たちを守りたいんだ」


 そのあまりにも英雄的で、あまりにも主人公的な言葉に、俺はまるで頭から冷水を浴びせられたかのような衝撃を受けた。


 ――なんだ、この青年は。


 この青年はとっくの昔に覚悟を決めていたのだ。

 自らの恐怖と向き合い、その上で戦うことを選んでいた。


 俺は恥ずかしくてたまらなかった。

 四十八にもなってまだ腹も決めきれない自分が、この二十歳の若者に比べてあまりにもちっぽけで情けなく思えた。


「……すごいな、君は」

 俺の口から本音が漏れた。


「ううん、すごくなんかないよ。俺ができることをやってるだけ。

 ……アキラさんだってそうじゃないか」

「え?」

「何度でも言うけど、今日の判断だって俺は正しいと思うよ。

 ただ正しい判断が全体的にし切れなかったのは準備期間があまりにも少なかっただけだよ。

 俺たちのこと何も知らなかったんだから、仕方ないさ」


 そして、彼は最後に言った。

 それは篠崎レイナが俺に告げた言葉と、奇しくも同じだった。


「だからアキラさんも、実働の可能性がある第四と第五のメンバーだけでも、一人ひとりとちゃんと関わったほうがいいんじゃないかな。

 あんたが俺たちをただの駒として見れない人なら、なおさらね」


 その言葉は俺の心に深く突き刺さった。

 そうだ。

 俺はまだ何も知らない。

 彼らのことを。

 この世界のことを。


 知らないまま戦うことなどできない。

 俺がやるべきことは決まった。


 俺は顔を上げた。

 その瞳には、もう迷いの色はなかった。


「……ありがとう、咬威くん」


 俺は深く頭を下げた。


「礼を言われるようなことは何も」


 彼は照れくさそうに頭を掻くと、「じゃあ俺練習あるから」と言ってギターケースを担ぎ直し、部屋を出ていこうとする。

 

 その背中に、俺は慌てて声をかける。


 そうだ、それなら。

 まず手始めに最も謎に包まれたあの男から。


「あ、待ってくれ咬威くん。――そういえば、あの半吸血鬼は……獅亞鈴は一体何者なんだ?」


 俺のその問いに、咬威くんは少しだけ足を止めた。

 そして困ったように笑いながら答える。

 その答えは、俺が全く予想していなかったものだった。


「亞鈴のこと? うーん、あの人は……元は人間だよ。

 カナトさんみたいに片足どころか、全身どっぷり歪鬽に浸かっちゃってるけどね」


 ――元人間。

 その言葉に俺は息を呑んだ。


 あの傲慢で冷徹で、人間を完全に見下していた少年が。

 かつては俺たちと同じ人間だったというのか。

 一体彼の身に何があったというのだろう。


 俺がさらなる質問をしようとしたそのときだった。


 ――ぞくり。


 突如として部屋の温度が、数度下がったかのような悪寒が俺の背筋を走り抜けた。

 いつの間にそこにいたのか。

 部屋の入り口の影から、一人の少年がすっと姿を現していた。


 淡いピンク色の髪。

 口元を覆うマスク。

 獅亞鈴、その人だった。


 彼の不機嫌そうな声が、静かな部屋に響く。


「……あまり人の情報をべらべら喋るな、咬威」


 その声には何の抑揚もなかった。

 だが、それゆえにその底にある不快感が明確に伝わってくる。


 咬威くんはしまったという顔をしたが、すぐにいつもの調子でへらりと笑った。


「いいじゃん別に。俺が言いたいのはさ、確かに根っから亞鈴を化け物扱いしたアキラさんも、不機嫌さを隠そうともしない亞鈴も良くはないかなぁって。

 両方とも、知性もあれば理性もある立派な仲間なんだからさ、仲良くしようよってこと」


 そのあまりにも無邪気で、そしてあまりにも空気が読めない咬威くんの言葉。

 それに対して獅亞鈴が返したのは、たった一言だった。


「……は?」


 それは疑問の形をしていなかった。

 ただ純粋な無理解と、そして心底どうでもいいという絶対的な拒絶。


 そのたった一言で、咬威くんの善意は木っ端微塵に粉砕された。

 亞鈴はもはや咬威など見ていなかった。

 その冷たい青い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。


「……木村アキラ。一つだけ教えておく」


 俺はゴクリと喉を鳴らした。

 その瞳に見つめられると、まるで蛇に睨まれた蛙のように身体が動かない。


「……第四にいる歪鬽は俺だけではない」


 その言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。

 俺だけではない? どういうことだ。


「俺とウマが合わないと感じるなら、他のと関わればいい。もっとも――」


 彼はそこで一度言葉を切ると、心底軽蔑しきった声で言い放った。


「その体たらくで、他の奴らがお前に関わってくれるかは知らんがな」


 吐き捨てるようなその言葉を最後に、獅亞鈴はすっと影に溶けるように姿を消した。

 後に残されたのは圧倒的なまでの威圧感と、そして俺の脳裏に突き刺さった謎の言葉だけ。


 第四にいる歪鬽は俺だけではない。

 まだいるというのか。

 この組織には、俺の知らない化け物が。

 俺がこれから司令官として率いなければならない兵士の中に。


「……あーあ、行っちゃった」


 咬威くんがやれやれと肩をすくめた。


「ごめんねアキラさん。俺、余計なこと言ったかも」

「……いや」


 俺は力なく首を振った。


「君のせいじゃない。……教えてくれてありがとう」

「そ? ならいいけど。じゃあ俺、今度こそ練習行くから」


 咬威くんは今度こそ本当に部屋を出ていった。

 ブリーフィングルームに再び、俺一人が取り残される。


 だが俺の心境は、先ほどまでとは全く違っていた。


 獅亞鈴。

 元人間でありながら、今は歪鬽として生きる少年。

 彼が抱える闇は、俺が想像するよりもずっと深いのかもしれない。


 そして、彼以外にもまだ見ぬ歪鬽がこの組織にはいる。

 俺の進むべき道は、なんと険しく、そして暗いのだろう。


 俺は、武雷咬威がくれた一筋の光を頼りに、その暗闇の中を一歩ずつ進んでいくしかないのだ。


 俺は重い足取りでブリーフィングルームを後にした。

 次に向かうべき場所は決まっている。


 ――第三機密部、【黒銀こくぎん】に戻ろう。


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