第031話「勝利の代償」
――なんだ。
今のは一体なんだ。
司令室のメインモニターに映し出された神開カナトの視界映像。
そのあまりにも凄惨で、あまりにも一方的な殺戮ショーに、俺は声も出せずにいた。
黒い嵐。
そして、その中心に舞い降りた一人の少年。
俺の脳は、まだその光景を、現実として処理しきれていない。
だが、戦況は、俺の混乱など待ってはくれない。
俺の目の前の戦術マップ上で、恐るべき事態が進行していた。
赤い光点が消えていく。
【狼襲】の群れを示す、あの絶望的な数の光点が。
まるで、誰かが盤上から駒を払い落とすかのように。
ありえない速度で、次々と消滅していくのだ。
一つ、また一つと。
点滅していた警告ランプが、途端に緑の正常表示へと戻っていく。
あれほど司令室を支配していた、けたたましいアラート音も、いつの間にか止んでいた。
俺の目からは、その攻撃方法すら認識できない。
歪鬽の姿が見えない俺には、ただ戦術マップの赤い点が消えていくことしか、分からなかった。
それは、まるでコンピューターゲームの画面を見ているかのようだった。
あまりにも現実感がない。
あまりにもあっけない。
命のやり取りをしているという実感など、どこにもなかった。
ただただ、静かに、結果だけが、データとして表示されていく。
ただ分かるのは。
神開カナトのボディカメラから、時折映し出される、戦場の断片。
そこには、次々と、狼らしき歪鬽「だったもの」の、無惨な死骸が、現れていく。
ずたずたに切り裂かれた肉塊。
原型を留めないほどに、破壊された骨。
大地を朱に染める血だまり。
そうだ。
死骸は見える。
以前、誰かに、そう言われたことがあった気がする。
見たくもないのに、そのおぞましい光景だけが、俺の網膜に焼き付いていく。
あれはゲームなどではない。
紛れもない現実だ。
俺が解き放った一人の怪物が、今まさに、この地獄絵図を、たった一人で作り出している。
数十秒だっただろうか。
あるいは、一分にも満たなかったかもしれない。
あれほど、俺たちを絶望の淵に叩き込んだ、狼の群れ。
その最後の赤い光点が、マップ上から、完全に消滅した。
――すべてが終わった。
司令室は、静まり返っていた。
誰も、何も言えない。
ただ、呆然と、目の前の結果を見つめるだけだ。
俺もまた、その一人だった。
勝った。
作戦は、成功したのだ。
だが、俺の心の中には、達成感など、ひとかけらもなかった。
そこにあるのは、ただ、自分の判断の恐ろしさに対する、底知れない恐怖だけ。
やがて、モニターの向こうから、あの不機嫌そうな声が響いた。
獅亞鈴。
第一級歪鬽。
半吸血鬼。
その声は戦闘が終わった今も、何の感情も宿していなかった。
『――掃討、完了』
そのあまりにも、事務的な報告。
そして彼は、最後にこう付け加えた。
心の底から、つまらなそうに。
『……つまらん』
俺はその一言の持つ、底知れない闇にただ震えることしか、できなかった。
声を出そうとしても、出ない。
『……神開カナト、正中視天、死んでないな』
それは、確認というより、ただの事実の読み上げに近かった。
『……ほら、帰るぞ。
武雷咬威は……第五にでも、運んでもらえ』
その、あまりにも雑な物言い。
共に戦った仲間に対する、ねぎらいなど、微塵もない。
その傲慢さが、彼の力の根源なのだろうか。
俺は、何も言えなかった。
俺は、この化け物を、どう扱えばいいのか、分からない。
俺は、この勝利を、どう受け止めればいいのか、分からない。
ただ一つ、分かっているのは。
俺が、これから進んでいく道は、俺が想像していたよりも、ずっと暗くそして血塗られた道だということだけ。
胃が痛い。
その確かな痛みだけが、俺を、この現実世界に繋ぎとめる、唯一の錨だった。
重苦しい沈黙を破ったのは、今まで静かに事の全てを静観していたリゲル様の涼やかな声だった。
『――皆様お疲れ様でした。
重傷者はいないようで、何よりです』
その声はどこまでも穏やかで。
どこまでも絶対的だった。
たった一言で司令室の凍り付いた空気が、緩やかに溶け始める。
これが王の器。
混乱の極みにあった場を、その存在だけで平定してしまう圧倒的なカリスマ。
『デブリーフィングを行いましょうか。
第四機密部のブリーフィングルームに今回出動した隊員と、各部門長は集合してくださいますか?』
デブリーフィング。
作戦行動後の報告会。
俺のサラリーマン人生でも聞き馴染みのある言葉。
だがこれから行われるのはそんな生易しいものではないだろう。
俺の判断が正しかったのか。
そしてこれからどうするのか。
それをあの怪物たちを前にして説明しなければならないのだ。
考えただけで、胃がひっくり返りそうになる。
『第五【灰都】の研究員は、安全に充分に留意した上で歪鬽の死骸の回収を行ってください。
貴重なサンプルですし、一般人の目もあります。
一つも見逃さず、一つも無駄にしないように』
『――はーい。獅 亞鈴、おもったより綺麗に残してくれてありがとう。助かりますねぇ』
モニターの向こうでシュウヤが嬉々として頷いた。
彼にとってはあの地獄絵図ですら、最高の研究素材の宝庫にしか見えていないのだろう。
その、感覚の違いに俺は改めて眩暈がした。
『獅亞鈴も。
デブリーフィングへの参加をお願いできますか?』
リゲル様は静かに、あの半吸血鬼に問いかけた。
その問いに、モニターには映らない謎の声が不機嫌そうに答える。
『……了解した。
言いたいことはたくさんあるからな。……なあ、王隠堂』
『いやはや――、まったく、ね』
今度は王隠堂残月の、楽しそうな声が割り込んできた。
その二人の会話は、あまりにも不穏だった。
まるでこちらにわざと聞かせるような会話内容。
言いたいこととは何だ。
俺の采配に不満しかないのだろう。
新たな胃痛の種がまた一つ増えた瞬間だった。
リゲル様がすっと回線を切ると、他の部門長たちもそれに倣って次々とモニターから、姿を消していく。
後に残されたのは第三機密部の静まり返った司令室と、そして抜け殻のようになった俺だけだった。
「――私はここで事後処理と、各部門との調整を。
木村部門長は地下一階の、第四機密部のブリーフィングルームへお願いいたします」
隣で、篠崎レイナが淡々と告げた。
彼女はもう、次の仕事へと頭を切り替えている。
そのあまりの切り替えの速さに、俺はただただ感心するしかなかった。
俺は力なく頷くと重い足取りで、司令室を後にする。
一人エレベーターに乗り込み、再び第四機密部【白閃】の拠点へと向かう。
先ほど訪れた時とは比較にならないほど、足取りが重い。
これから始まる報告会。
それは俺にとって第二の戦場だった。
俺はそこで、俺の判断の全てを問われることになる。
俺に、命のやり取りはない。
だがそれ以上に、俺の司令官としての存在価値そのものが試される場となるだろう。
地下一階。
ブリーフィングルームの前に立つと中から話し声が聞こえてきた。
俺は深呼吸を一つして、意を決してドアを開けた。
そこにいたのは、先ほどまで死線を彷徨っていた戦士たちが、手当を受けていた。
神開カナトは、壁に寄りかかり消耗しきった様子で荒い呼吸を繰り返している。軽傷だが傷が多い。
正中視天は床に座り込み、自らの霊刀を静かに手入れしていた。こちらも傷が多い。
武雷咬威は椅子に深く、腰掛けぐったりと天井を仰いでいる。傷はないが、心身共に疲弊しているようだった。
そして、第四の部門長である一条トウカが、厳しい顔で腕を組みその三人の前に立っていた。
俺の姿を認めると、四人の視線が一斉にこちらに向く。
その視線はどれも複雑な色を帯びていた。
安堵。
疲労。
困惑。
そして、かすかな非難。
俺は何も言えなかった。
どんな言葉をかければいいのか分からなかった。
お疲れ様か。
よくやってくれたか。
すまなかったか。
どの言葉もあまりにも軽々しく、そして空々しく響いてしまうような気がした。
その重い沈黙を破って。
部屋の扉が再び開いた。
獅亞鈴と王隠堂残月。
あの二人のジョーカーが姿を現す。
部屋の空気がさらに張り詰めていく。
――俺はこれから始まる嵐を思い、ただ奥歯を噛み締めることしかできなかった。




