第030話「獅亞鈴」
プランD。
俺が下した最後の、そして最も危険な決断。
それは、パンドラの箱を開けるにも等しい行為だったのかもしれない。
俺は、ただ祈るような気持ちで、モニターに映し出される戦況を見つめていた。
神開カナトと正中視天。
二人の若き戦士は、絶望的な数の差にも関わらず、驚異的な奮戦を見せていた。
カナトの異形の腕が閃光を放ち、狼の群れを薙ぎ払う。
視天の霊刀が青い軌跡を描き、狼の喉を的確に切り裂いていく。
その動きは、もはや人間の域を超えていた。
だが、多勢に無勢。
彼らのバイタルサインは、徐々に、しかし確実に低下していく。
消耗していく霊力と体力。
増え続ける傷。
彼らが限界を迎えるのは、もはや時間の問題だった。
『――こちら第四。秘匿隊員の投入準備、完了しました』
モニターの向こうから、一条トウカの緊迫した声が響く。
俺は固唾を飲んだ。
来る。
俺が解き放つと決めた、最後の切り札。
正体不明の化け物。
『――化け物とは、結構な言い草だな』
そのときだった。
司令室のスピーカーから、今まで聞いたことのない男の声が、静かに割り込んできた。
顔は意図的に隠されているのか、モニターには表示されていない。
ただ、その声だけが響く。
どこか影のある、そして底冷えのするような、不機嫌そうな声。
その声の主が、トウカの言った「化け物」という言葉に反応したのだと、すぐに分かった。
『知性ある歪鬽だと説明されなかったか? ――まあ、いい』
その声は続けた。
その口調には、絶対的な自信と、そして自分以外の全てを見下しているかのような、傲慢さが滲んでいた。
『ボディカメラはつけないぞ。
俺の戦闘は、部外者に見せるようなものじゃない』
『武雷――聞こえるか。今から俺の視界を、そっちにリンクさせる。
これ以上、戦場に余計な敵を増やすな』
インカムの向こうで、武雷咬威が息を呑む気配がした。
あの、のほほんとした青年ですら、この声の主には逆らえない。
圧倒的な「格」の違い。
声だけで、それが伝わってくる。
『神開カナト、正中視天。――今、そっちに向かって飛んでる。あと十秒で到着する』
『――助かるわ。気にくわないけど』
カナトが吐き捨てるように言った。
彼女はこの声の主を知っている。そして、好ましく思っていない。
だが、その実力は認めざるを得ない。
そういう関係性なのだろう。
『減らず口は後で聞く。――死ぬなよ』
その言葉を最後に、謎の声からの通信は切れた。
十秒。
その、あまりにも短い時間。
俺は、モニターに映し出された戦場の映像を、食い入るように見つめた。
狼の群れに囲まれ、絶体絶命の窮地に陥っている、カナトと視天。
その二人に、一体何が起ころうとしているのか。
――そして。
それは、訪れた。
空が翳った。
いや、違う。
無数の「何か」が、空を覆い尽くしたのだ。
その無数の刃が、狼の群れであろうノイズの塊めがけて一斉に降り注ぐ。
ほんの数秒。
あれほど脅威だった狼の群れが、ただの肉塊へと変わっていた。
その地獄絵図の中心に、一つの影が、ふわりと舞い降りる。
淡いピンク色の髪。
口元を覆うマスク。
あまりにも華奢なその少年が、たった一人で、この惨状を引き起こしたのだ。
俺は、もはや声も出なかった。
ただ、呆然とその光景を見つめるだけだった。
「……篠崎副部門長」
俺は震える声で、隣に立つ氷の女に問いかけた。
「はい」
「俺は今、一体……何を戦場に解き放ってしまったんだ……?」
その問いに、レイナは、ほんの少しだけ躊躇った。
そして、覚悟を決めたように、俺に世界のさらなる真実を告げた。
その声は、もはやただの報告ではなかった。
それは、禁忌の扉を開けるための呪文。
「――第四機密部・外部協力者。
第一級歪鬽に相応するとされる、規格外の存在。
名は、獅 亞鈴。
……種族、半吸血鬼です」
だいいっきゅう。
国が滅びかねないレベル。
俺は、先ほど久賀さんから聞いた説明を反芻した。
俺が今、戦場に放ったのは、ただの増援ではない。
核兵器にも等しい、戦略級の化け物だったのだ。
俺は、自分の判断の恐ろしさに、今さらながら気づいた。
狼の群れという目の前の脅威を排除するために、俺はそれよりもさらに強大で、危険な怪物を解き放ってしまったのかもしれない。
胃が痛い。
もはやそれは、ただの痛みではなかった。
俺の犯した罪の重さが、物理的な激痛となって、俺の内臓を苛んでいた。
俺は司令官として、取り返しのつかない過ちを犯したのではないか。
その疑念が、俺の心を黒く塗りつぶしていく。
戦いは、まだ終わっていなかった。
本当の地獄は、これから始まるのかもしれない。
――
血の匂いが、森を満たしていた。
むせ返るような鉄錆の匂い。
神開カナトは、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながら、片膝をついていた。
自らの右腕から変質させた骨の刃は、既にあちこちが欠け、左腕の白銀の義腕もまた、無数の傷に覆われている。
全身を、打撲と裂傷が苛む。
霊力も体力も、もはや限界に近かった。
――すべての歪鬽を一つ残らず消し去りたいのに。
闘志の目は消えないが、それも時間の問題である。
隣に立つ、正中視天もまた同様だった。
彼の纏う黒い戦闘服は、至る所が引き裂かれ、その下の白い肌からは、赤い血が滲んでいる。
霊刀「地中の天国」の青白い輝きも、先ほどよりずっと弱々しい。
それでも、二人の瞳から、闘志の光は消えていなかった。
彼らは第四の戦士だ。
たとえ四肢が引き裂かれようとも、心臓が止まるその瞬間まで、戦うことをやめたくはない。
だが、それも時間の問題だった。
二人の周りを、黒い影が取り囲んでいる。
【狼襲】。
その数は、もはや三十を超えていた。
一体一体が第三級という、悪夢の化身。
その赤い瞳は、憎悪と飢餓に爛々と輝き、二人の、消耗しきった獲物に、とどめを刺すタイミングを、虎視眈々と窺っている。
絶望的な状況。
木村アキラという司令官の脳裏をよぎった、最悪の未来が、今まさに現実になろうとしていた。
そのときだった。
空が暗転し、血の刃の雨が降ったのは。
何の前触れもなかった。
ただ、突如として天が朱に染まり、無数の黒い刃が、狼の群れへと降り注いだ。
断末魔の叫びを上げる間もなく、狼たちの身体が、ずたずたに切り裂かれていく。
ほんの数秒。
あれほど脅威だった狼の群れの前衛が、ただの肉塊へと変わっていた。
その地獄絵図の中心に、一つの影が、ふわりと舞い降りる。
淡いピンク色の髪。
口元を覆う、スカルデザインのマスク。
その両手に握られた、二本の黒い短剣。
獅亞鈴。
第四機密部が秘匿する、最強最悪の切り札の一つだ。
彼は血の海と化した大地に、音もなく着地すると、まず視線を、カナトと視天に向けた。
その青い瞳には、何の感情も浮かんでいない。
ただそこに在る物体を確認するかのような、無機質な視線。
彼は二人の被害状況を一瞥すると、興味を失ったかのように、吐き捨てた。
「――下がってろ」
たったそれだけ。
ねぎらいの言葉もなければ、安否を気遣う言葉もない。
ただ、「邪魔だ」と言わんばかりの、冷たい命令。
その傲慢な態度に、カナトは「誰に向かって……」と憤然と顔を上げた。
だが、彼女は何も言い返せなかった。
亞鈴の全身から放たれる、圧倒的なまでのプレッシャーが、彼女の言葉を喉の奥に押しとどめたのだ。
それは、カナトや視天が放つ「闘気」などという生易しいものではない。
もっと根源的で、絶対的な「格」の違い。
下等な生物が、捕食者の前に跪くしかない、本能的な恐怖。
亞鈴は、もはやカナトたちに興味はないとでも言うように、狼の群れへと向き直った。
ずるり。
彼の身体の周囲の空間が、歪む。
そして、その歪みから、彼の血液でできた無数の黒い剣が、音もなく出現した。
一本一本が、彼の意思で宙を舞う、自律兵器。
その数は、四十振り以上。
血の刃の軍勢が、静かに主の命令を待っている。
狼たちが、明らかに怯んでいた。
彼らもまた歪鬽。不条理の塊であっても、動物と同様に本能はある。
目の前に現れた少年が、自分たちとは比較にならない上位存在であることを感じ取る。
そして、その存在が放つ底なしの殺意を、本能で理解しているのだ。
だが、彼らは逃げなかった。
憎悪が恐怖を上回ったのか、あるいは彼らを操る何者かの命令か。
狼たちは一斉に牙を剥き、亞鈴めがけて突進を開始した。
大地が揺れる。
それは、もはやただの突撃ではない。
山津波。
全てを飲み込み、全てを喰らい尽くす、黒い死の奔流。
その絶望的な光景を前にして。
獅亞鈴は、ただ静かに呟いただけだった。
「――ふむ。四十体か」
まるで、そこに転がっている石の数を数えるかのように。
何の感慨も、何の感情もなく。
ただ、淡々と。
そして次の瞬間、彼の身体から放たれる殺意が、爆発的に膨れ上がった。
「――塵すら残すな」
その冷たい命令と共に、獅 亞鈴の周りに、四十を超える血の刃が生成された。そして、それぞれが自立行動を始め――。
一斉に狼の群れへと襲いかかった。
それは、もはや戦闘ではなかった。
一方的な殲滅。
蹂躙。
下等な獣を弄ぶかのような、あまりにも無慈悲な殺戮ショー。
カナトと視天は、その光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
自分たちが命を懸けて戦っていた相手が、まるで子供の玩具のように、破壊されていく――。




