第003話「リミット8時間の課題」
胃が、雑巾のように絞られる。
俺の貧弱な消化器官は、48年間の人生で経験したことのない、規格外のストレスに完全にキャパシティオーバーを起こしていた。
目の前のファイルに書かれた「企業間戦争」の文字が、ゲシュタルト崩壊を起こし始めている。
俺はこれから戦争の指揮官になれ、ということなのか?
しがない広告代理店の、中間管理職だった俺が?
――逃げ出したい。
今すぐこの場から逃げ出して、家に帰って妻の作った生姜焼きを食べたい。
子供たちの他愛ない話を聞きながら、発泡酒を呷りたい。
そんな、あまりにも平凡で。
しかし今は手の届かないほど遠くなってしまった日常に、俺は猛烈に焦がれていた。
俺が魂を半分以上口から出しながら呆然としていると。
相川リゲル副総帥が、ふっと優雅に立ち上がった。
その所作一つで、部屋の空気がピリリと引き締まる。
「レイナさん。アキラさんに第三機密部の拠点を案内して差し上げてください」
「かしこまりました」
氷の秘書、いや、俺の副官となるらしい篠崎レイナが、完璧な一礼を返す。
……おお、拠点とやらの見学か。
少しは、考える時間がもらえるかもしれない。
俺は藁にもすがる思いで、その言葉に微かな希望を見出しかけた。
だが神は、そんな俺のちっぽけな希望をいとも容易く踏み砕く。
「アキラさんは……今日中にプランの進言をお願いできますか。
今は……13時前ですね。
21時までにお願いできますか?」
……。
……。
……にじゅう、いちじ?
俺の脳が、その言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
ええと。今が、13時前。つまり、午後1時前。
21時というのは、夜の9時のことだ――。
つまり、差し引き、約8時間。
8時間で120億円が動く、企業の存亡を賭けた「戦争」のプランを立てろ、だと?
(む、無茶苦茶だ……!)
――俺がさっきまでいた広告代理店なら、どうだろう。
まず、この案件のヤバさに全員がドン引きし。
数日かけて資料を集め、一週間かけて、ああでもないこうでもないと無駄な会議を繰り返し。
さらに一週間かけて体裁のいいプレゼン資料を作り。
ようやく役員たちの前に恐る恐る提出する。
それが常識的な社会人の仕事の進め方だ。
――それを、8時間?
これはテストだ。
間違いなく、俺を試している。
相川財閥流のとてつもなく悪質で、常軌を逸したパワハラまがいの新人研修なのだ。
ここで「できません」と言えば、「やはり君には無理だったようだね」と、即刻クビになるに違いない。
だが、「できます」と言ったところで、できるわけがない。
――どっちにしろ、詰んでいる。
八方塞がり。四面楚歌。
俺の人生、完全にチェックメイトだ。
俺の顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
口をパクパクと金魚のように動かすだけで、意味のある言葉が出てこない。
そんなパニックになりかける俺に、隣に立つ篠崎レイナが、表情を一切動かさず、
静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「私も、第三の職員も全力でお支え致しますので。何なりとお申し付けください」
――その声には、不思議な説得力があった。
感情は一切こもっていない。
温かみなど、微塵も感じられない。
だがその言葉が、単なる気休めや社交辞令ではないことだけは、なぜか分かった。
彼女は、本気で言っている。
俺がこの絶望的な状況を、覆せると本気で信じている。
その揺るぎない自信が俺の、
パニックで飽和しかけていた脳に、ほんの少しだけ冷静さを取り戻させた。
「……わ、分かりました」
俺は、か細い声で、何とかそれだけを絞り出した。
「やって、みます……」
「お願いしますね」
リゲル副総帥は、満足そうに頷くと、再び執務椅子に腰を下ろし、手元の別の書類に視線を落とした。
よく見れば、他にも同様のファイルや書類の束が机の上にあり、同時にタブレット端末は通知が止まることなく届いている。
うわぁ……他にも仕事、あるんだぁ……。
「――では、木村部門長。こちらへ」
レイナに促され、俺はゾンビのようにふらつきながら立ち上がる。
副総帥室の重厚な扉が開き、俺は彼女の後について、未知の領域へと足を踏み出した。
廊下は、静まり返っていた。
人の気配が、全くない。
聞こえるのは、俺とレイナの靴音だけだ。
壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない滑らかな金属か何かでできているようで、まるで宇宙船の中にいるような錯覚に陥る。
時折、俺たちの前を通り過ぎる黒服の男たちがいるが、彼らは一様にこちらに視線を向けることなく、深々と頭を下げて通り過ぎていく。
彼らの纏う空気が、カタギのものではないことだけは、俺にも分かった。
(本当に、とんでもない所に来てしまった……)
胃が再び存在を主張し始める。
俺は、ポケットに入れていた安物の胃薬のシートを無意識に握りしめていた。
こんなもので、この地獄のようなストレスが和らぐはずもないのだが。
――やがて、レイナは一つの扉の前で立ち止まった。
そこには、プレートも何もかかっていない。
ただ壁と一体化した、無機質な扉があるだけだ。
レイナが壁のパネルに軽く手を触れると、認証されたことを示す電子音と共に、重厚な扉が、音もなく横にスライドした。
「ここが我々、第三機密部【黒銀】の拠点です」
その先に広がっていたのは俺が想像していた、
薄暗い秘密結社のアジトのような光景とは、全く違うものだった。
そこは、まるで証券取引所のフロアか、あるいは宇宙船のブリッジを思わせる、
広大で、そして機能美に満ちた巨大なオフィス空間だったのだ。
俺は、その光景に、ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……ようこそ、木村部門長」