第022話「指揮権の刻印」
「――作戦プランを、伝える」
俺は覚悟を決めた。
不完全な情報。限られた時間。そして規格外の怪物たち。
……この最悪の手札で最善の結果を出す。
俺は大きく息を吸い込み、これから始まる地獄の合唱のその第一声を指揮者として発しようとした。
――そのときだった。
「えっと、あのー」
俺が作戦をまさに口にしようとしたその瞬間。
各部門長が映し出されたモニターの中に、不意に一つの新しいウィンドウが割り込んできた。
その声は爽やかで、そしてどこかまだ幼さを残す青年の声。
だが、その明るい響きの裏側にふと影のような深淵が感じられたのは、俺の気のせいだろうか。
モニターに新たに映し出されたのは、儚げで柔和な笑みを浮かべた茶髪の青年だった。
歳は10代半ばか。
その後ろには第五機密部のものと思われる雑然とした、しかし最新鋭の機材が並んだ研究室のような背景が見えている。
「お初にお目にかかります、木村部門長。第五機密部所属、研究員の明芽宮ワタルです」
青年はにこやかに、そして礼儀正しく頭を下げた。
アメミヤ、ワタル。
俺は、手元のタブレットに表示された人員リストの中に、その名前を確認する。
第五機密部【灰都】、研究員、明芽宮ワタル。
戦闘経験、数回。不得手。
そしてその名前の横には、やはり真っ赤な警告色の文字。
【※特記事項あり:セキュリティレベル10】
――またか。
またこの訳の分からないブラックボックス持ちか。
俺が内心うんざりしていると、そのワタルと名乗った青年はとんでもない提案を口にした。
その、爽やかな笑みを一切崩すことなく。
「専門が歪鬽学なのですが、今回のコードネーム【狼襲】を今後の研究のために捕獲することは可能ですか……?
最悪、死骸でもいいんですけど、できれば生け捕りの方が研究素材としては質が良くて……」
……ほかく? いけどり?
俺は一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。
自衛隊の一個中隊が全滅するレベルの怪物を。
捕まえる?
まるで珍しい昆虫でも採集しに行くかのような、あまりにも軽やかな口調で。
そして何よりも、そのあとに追撃するような声がするのが悪夢だった。
『僕からもお願いしたいですね、アキラさん』
モニターの向こう側で逆太刀シュウヤがその提案に乗り気で手を上げる。
『彼の言う通り、生きたサンプルは貴重です。研究が捗りますし』
……こいつもか。
この第五機密部の連中は、やはり全員、ネジが何本も外れている。
人の命がかかっているこの極限の状況で、自らの研究欲と好奇心を隠そうともしない。
――だが、俺はもう、この世界の狂気には慣れつつあった。
「――却下だ」
俺は間髪入れずにきっぱりと言い放った。
ワタルの爽やかな笑顔が初めてわずかに揺らぐ。
「明芽宮研究員、だったか。
君の研究への情熱は素晴らしいと思う。
だが、今回の最優先事項は民間人の保護だ。
歪鬽討伐ですら一番じゃない。
保護が、最優先だ」
俺はモニターの中のその得体のしれない青年をまっすぐにみつめた。
俺にはワタルの情報が何もない。
彼がどれほどの力を持っているのか。
その特記事項の中身が何なのか。そんなことは関係ない。
俺は今、この作戦の司令官なのだ。
そして司令官として、動かせる人員を無用な危険に晒す選択肢はありえない。
「『捕獲』は『討伐』よりも遥かにリスクが高い。
それは素人の俺でも分かる。君の個人的な探求心のために第四の貴重な戦力を危険に晒すことは許可できない。……以上だ」
俺のその断固たる拒絶に、モニターの中のワタルはぽかんと口を開けて固まっていた。
おそらく彼もシュウヤと同じ種類の天才なのだろう。
自らの願いが他人に拒絶されるという経験を今までほとんどしたことがないのかもしれない。
その隣でシュウヤが「まあ、そう言うと思いましたけどね」と肩をすくめている。
俺はもう彼らの反応を待たなかった。
時間はないのだ。
「――横やりはあったが。――改めて。各部門長に通達する」
俺のその言葉に、モニターの向こうの空気が変わる。
一条トウカの瞳が鋭さを増した。
水守カスミの神々しい微笑みが消えた。
久賀理人が気だるそうに、しかしその死んだ魚のような瞳の奥に確かな光を宿してこちらを見た。
そして逆太刀シュウヤがその興味深そうな瞳を俺に向けた。
今、この瞬間、俺は確かにと怪物たちの中心に立っていた。
俺は続けた。
もう声の震えはない。腹は決まっている。
「作戦の最優先事項は集落の民間人の安全確保。――捕獲プランは却下する」
俺は言い切った。
モニターの片隅で明芽宮ワタルが子犬のように悲しそうな顔をしてシュウヤに何かを耳打ちした後、静かに通信を切ったのが見えた。
――だが、知ったことか。
俺は非情な司令官として言葉を続ける。
「第四機密部【白閃】の三名を主戦力とし、対象の完全な無力化を図る。
第二機密部【紅夜】、第五機密部【灰都】はそのサポート及び、万が一の事態に備えたバックアップに回れ。
第一機密部【碧命】は状況に合致するカバーストーリーの作成および流布の準備を開始。こちらに許可を回さなくていい。
あなたの判断に一任します、水守部門長」
『――御意』
水守カスミが深く頷く。
その一言だけで、彼女の背後にある巨大な情報操作機関が動き出すのだ。
俺は、最後に最も厄介な相手に向き直った。
一条トウカ。
彼女がこの作戦の鍵だ。
彼女の協力がなければ何も始まらない。
「――この際、出撃前に白閃の三名に何ができるか、本人に直接確認したい」
俺はモニターの向こう側の彼女をまっすぐに見据えた。
「一条部門長。――出撃準備中に、そちら第四の拠点に俺が伺う許可が欲しい」
その、俺のあまりにも突飛な提案に。
モニターの中の全員が息を呑んだのが分かった。
特に一条トウカは、その美しい目を信じられないというように大きく見開いている。
司令官が自ら最前線の基地に赴く。それは常識的に考えてありえない行動だろう。
……だが、俺には俺の考えがあった。
特記事項というブラックボックス。
今すぐに俺は、その中身を知ることができない。
ならば直接会って話を聞くしかない。
紙の上のデータだけでは分からない、その人間の本当の力をこの目で確かめるしかないのだ。
――そして何よりも。
これから命を懸けて戦場へ向かう兵士たちに顔も見せず、安全な場所からただ命令を下すだけの司令官に俺はなりたくなかった。
それは俺のサラリーマン――一般人としての、ちっぽけな、しかし譲れない矜持だった。
俺のその真意を、モニターの向こう側の怪物たちがどう受け取ったのか。
沈黙が流れる。
その沈黙を破っていたのは、今までずっと黙って戦況を見守っていた若き王、リゲル様の声だった。
「――許可します」
リゲル様が静かに告げた。
「トウカさん。アキラさんを第四の拠点へ。最高レベルの賓客としてお迎えしてください。……これは命令です」『…………御意』
トウカは悔しそうに唇を噛み締めながらも深く頭を下げた。その返事を確認すると、リゲル様は最後に俺に向き直った。
「――行ってらっしゃい、アキラさん。あなたの『頭脳』が導き出す答えを、見守っていますよ」
その言葉を最後にリゲル様の通信は切れた。
俺はふぅと大きく息を吐き出す。
全身が汗でぐっしょりと濡れている。
だが不思議と恐怖はもうなかった。
俺はただ、これから始まる本当の戦いに向けて心を研ぎ澄ませていた。
「……レイナさん」
「はい」
「第四の拠点まで案内を頼む。……一番早いルートでだ」
「かしこまりました。――こちらへ」
レイナのその声には、初めてほんのわずかだけ誇らしげな響きが混じっていたような気がした。




