第020話「視える者たち」
『――10分ほど、待って貰えますか』
モニターの中から、久賀理人の声が届く。
その声はもはや、いつもの眠そうな響きではない。研ぎ澄まされた、プロフェッショナルの声だ。
『それまでにウチら第二は必ず個体を特定するんで。そうなったら木村部門長には、第四と第五を本格的に動かしてもらうことになります』
理人のその言葉が、まるでカウントダウンの合図のように俺の頭にぐわんぐわんと響く。
10分。
たった10分で、俺は自衛隊の一個中隊ですら全滅するという神話の怪物と戦うための作戦を立てなければならない。
無理だ。
俺の喉がひゅっと鳴る。
足が震え、指先が冷たくなっていく。
怖い。
俺にはできない。
そんな重圧に押し潰されそうになった、その瞬間。
『……できないと考えているなら、篠崎副部門長に代わってくれるかしら』
氷の刃のような声が俺の心を貫いた。
一条トウカ。第四機密部の部門長。
彼女はモニターの向こう側で、俺のことなど見てすらいない。
その鋭い視線は、俺の隣に立つ篠崎レイナに向けられていた。
俺が来るまでトップ不在のこの第三機密部を、二年もの間たった一人で率いてきた才女。
彼女はそのレイナにしか期待を寄せていないのだ。
『覚悟のない人に、私達の命は預けられない』
あまりにも真っ直ぐで、そしてあまりにも正論な言葉が、俺の最後のプライドを粉々に打ち砕いた。
そうだ。その通りだ。
俺には覚悟などない。
昨日まで広告代理店でパワハラ上司に頭を下げていただけの、しがないサラリーマンだ。
人の命を預かる資格など、あるはずがない。
(……レイナさんに任せてしまえばいいのではないか?)
悪魔の囁きが脳裏をよぎる。
そうだ、それがいい。
彼女なら、きっと俺よりもずっとうまくやれるはずだ。
俺はただのお飾りの部門長として、彼女の後ろに隠れていれば……。
――その考えは。
モニターに映るリゲル様の顔を見た途端に霧散した。
彼は何も言わない。
ただ静かに、俺を見ている。
その蒼い瞳は俺を責めてもいない。
ただ、信じている。
俺がここで立ち上がると、俺が彼の「頭脳」としての役目を果たすと、心の底から信じ切っている。
あまりにも純粋で、そして重い信頼。
(……ああ、クソ)
俺は心の中で悪態をついた。
もう逃げ道はないのだ。
腹を括った。
「篠崎副部門長」
震える声を無理やり押し出し、隣に立つ才媛に告げた。
「俺が理解できるように、第四と第五が現在即時投入可能な戦力と装備の詳細な説明を頼む。5分でだ」
『……! かしこまりました』
レイナの声がわずかに揺れた。
俺は次にモニターの向こう側の怪物たちに向き直った。
「一条部門長、逆太刀部門長。そちらから今回の作戦に投入可能な歪鬽を感知できる人員のリストをタブレットに送ってくれ」
『……感知、ですか』
シュウヤが面白そうに片方の眉を上げた。
『それはどれくらい感知できる方がいいですか? ノイズ程度の視認なら僕も可能ですが』
「はっきりと視認できる人員をだ。それと付帯情報として、その人員がどれだけ歪鬽との戦闘経験があるかも欲しい」
俺は言い切った。
そうだ。敵は見えない。
ならばまず必要なのは、敵の姿を正確に捉える「目」だ。
俺のその「視認」という一点に限定した選択に、一条トウカが文句を言いかけたのが分かった。
『――待ってください! そこまで限定すれば今動かせる人員など片手で数えられるほどもいません! それでは戦力に……!』
そうだ。分かっている。
だがそれでも俺には考えがあった。
俺はトウカの言葉を遮るように続けた。
「過剰な戦力はいらない。欲しいのは正確な『目』だ。 作戦の骨子は、もう決まっている」
俺は嘘をついた。
決まっているわけがない。
だがここでハッタリでもかまさなければ、この猛犬のような女に主導権を握られる。
「――今から30、いや20分で全員を納得させられるプランを立ててみせる。それまで黙って待ってろ」
言い放った。
モニターの向こう側でトウカが絶句しているのが見えた。
俺はもう後には引けなかった。
胃が痛い。
だがそれと同じくらい、心の奥底で司令官としての挑戦者の血が燃え上がっていた。
―――
「――第二にも、一応いるんで。
お節介だとは、思いますけど」
モニターの向こうから久賀理人の、気の抜けたしかし仕事のできる男特有の含みを持った声が聞こえてきた。
すぐに俺のタブレットに、彼からのデータが追加で送られてくる。
一条トウカもまたモニター越しに忌々しげに舌打ちをするのが見えたが、それでもリゲル様の前で俺の指示を完全に無視することはできなかったようだ。
彼女の第四機密部からも、同様にリストが送られてきた。
文句を言いながらも、命令には従う。
その軍人としての規律正しさが、今の俺にとっては何よりもありがたかった。
――だが。
その送られてきたリストの中身を見た瞬間。
俺は愕然とした。
【歪鬽の直接視認、および戦闘行為が可能な人員リスト】
第二機密部【紅夜】
副部門長:大嵐 龍宝
戦闘経験:あり。単体での第三級歪鬽の討伐経験あり。最終手段もしくは自衛手段としての戦闘が主で、戦闘自体は専門ではない。
※特記事項あり:セキュリティレベル9
第四機密部【白閃】
副部門長:神開 カナト
戦闘経験:多数。小隊での第二級歪鬽討伐経験あり。
※特記事項あり:セキュリティレベル9
戦闘員(本隊):正中 視天
戦闘経験:多数。単独での第三級歪鬽討伐経験あり。
※特記事項あり:セキュリティレベル9
銃器テスター:武雷 咬威
戦闘経験:数回。
※特記事項あり:セキュリティレベル9
第五機密部【灰都】
部門長:逆太刀 シュウヤ
戦闘経験:多数。※ただし、視認はノイズ程度に限る。
研究員:明芽宮 ワタル
戦闘経験:数回(不得手)。
※特記事項あり:セキュリティレベル10
研究員:王隠堂 残月
戦闘経験:多数。
※特記事項あり:セキュリティレベル10
――計、7名。
それが渡された、「視認に限定して戦闘のできる」人員の、全ての数だった。
あまりにも少ない。
放っておけば千葉県の山一つを覆い尽くそうかという災害。
自衛隊の一個中隊ですら一方的に全滅するという怪物。
それに対して投入できる「目」を持った戦士が、たった7人。
しかも、そのほぼ全員のプロフィールに真っ赤な警告色の文字が付与されている。
【※特記事項あり】
なんだこれは。
俺はその文字をタップしようとした。
だが無情にも、「アクセス権限がありません」という電子メッセージが表示されるだけ。
他機密部のセキュリティレベル9の情報は、その部門長の許可がなければ見ることができない。
もちろん、モニターの向こうで腕を組み仁王立ちしている一条トウカが、俺にその閲覧許可を与えてくれるはずもなかった。
そして、第五機密部の2人に至ってはレベル10。
――もはや俺には手も足も出ない。
「特記事項を確認している時間はありません」
隣に立つレイナがただ淡々と、事実を告げた。
……分かっている。
残された時間は、もうあまりないのだ。
俺はこの不完全すぎる情報だけで、判断を下さなければならない。
この7人の精鋭たちの命を。
そして千葉県の山奥の、名も知らぬ集落の人々の命を左右する重大な判断を。
――ぞわり、と。
全身の毛穴が開くのが分かった。
これがプレッシャー。
これが人の命の重さ。
俺が今まで背負ってきたどんな責任とも比較にならない絶対的な重圧が、俺の両肩にのしかかる。
胃が焼け付くように熱い。吐きそうだ。
今すぐ全てを投げ出して、逃げ出してしまいたい。
――落ち着け。
俺は自分に強く強く言い聞かせた。
そうだ。これはいつものことじゃないか。
情報が足りない。
時間が足りない。
予算が足りない。
そして部下はいつも言うことを聞かない。
上司はいつだって無茶を言う。
その中で最善の手を探す。
いや、違う。
最善の手など、ありはしない。
いつだって、そこにあるのは最悪か、それに準ずるいくつかの選択肢だけだ。
その中から、最も被害が少なく、そして最も未来に繋がる次善の策を、血反吐を吐きながら見つけ出す。
それが俺が20年以上続けてきた、中間管理職という仕事の本質ではなかったか。
――そうだ。
戦場が変わっただけだ。
やっかいなクライアントが神話の怪物に変わっただけだ。
やることは同じ。
俺は俺のやり方で、このクソみたいな状況を乗り切るしかない。
俺の心に覚悟の火が再び灯った。
俺はタブレットの画面を睨みつけた。
7人の名前。
第四の4人。第二の1人。そして第五の2人。
戦闘経験、討伐経験。
そして特記事項というブラックボックス。
この限られた情報の中から、最適なチームを編成し、そして勝てる作戦を立案する。
「……レイナさん」
俺は隣に立つ副官に声をかけた。
「はい」
「千葉県の現場周辺の詳細な地形データを出してくれ。それと過去、類似の歪鬽災害の戦闘記録もだ。出せる範囲で構わない」
「かしこまりました。――ただちに」
レイナの声に迷いはない。
俺の覚悟は彼女にも伝わっている。
モニターの向こう側で、5人の怪物たちが俺を見ている。
試すような目で。
観察するような目で。
そして期待するような目で。
俺はもう、彼らの視線から逃げなかった。
やってやる。
俺の全てを賭けて。
――この最初の戦いに、俺は必ず勝つ。




