第002話「120億円の胃痛」
(……ええい、ままよ!)
清水の舞台から飛び降りるような覚悟で、俺はサイン欄に「木村アキラ」と書き殴った。
ミミズが這ったような、情けない字だった。
――だが、これで後戻りはできなくなった。
俺が取り落とすようにしてペンを置くと、リゲル副総帥は満足そうに小さく頷いた。
その完璧な造形美を持つ顔が、ほんの少しだけ――本当にほんの少しだけ。
無邪気な笑みを浮かべたように見えたのは、きっと気のせいだろう。
「ようこそ、木村アキラさん。
――いえ、これからは木村部門長、とお呼びすべきですね」
「は、はあ……?」
「では、早速ですが……あなたに、これからお願いしたい役職についてご説明します」
リゲル副総帥はまるで、新しいゲームの説明でもするかのような、楽しそうな声色で続けた。
「あなたには、財閥機密統合戦略室――
第三機密部【黒銀】の部門長をお願いしたい」
副総帥の言葉がやけにゆっくりと、一音一音、俺の鼓膜を殴りつけた。
「だいさん、きみつぶ……?」
聞いたこともない部署名だった。
「戦略室」という言葉はなんとなく分かる。
俺がいた広告代理店にも、似たような名前の部署はあった。
エリートたちが集まってもっともらしいグラフやデータを並べ立てる、あの感じだ。
――だが、「機密」? しかも、部門長?
その物騒な響きに、俺の背筋を冷たい汗が伝う。
さっきまでとは質の違う。
もっとリアルで、もっとヤバい汗だ。
リゲル様はそんな俺の動揺を楽しむかのように、続けた。
「財閥機密統合戦略室には『財閥』と名はついていますが、実質的に私のための、私直下の部署です。所属する職員・隊員は一般には公開されません」
「……公開、されない?」
「ええ。言うなれば、私の私兵、私のための秘密結社のようなものだとお考えください」
秘 密 結 社。
おいおい、マジか。
俺は、秘密結社の中間管理職に就任してしまったのか?
35年ローンはどうなるんだ。
子供たちの学費は?
――いや、それ以前に、俺の命は……?
俺の顔がみるみるうちに青ざめていくのを、リゲルは心底楽しそうに眺めている。
「そのなかの、第三機密部。通称【黒銀】。
各部門の行動を統括し――、
表の交渉を担い、私に進言する。
時には各部門への指令も行って貰う。
機密部かつ私自身の【頭脳】とも言える、極めて重要な部署です」
――頭が、クラクラする。
スケールがデカすぎる。
今まで俺が扱ってきた「案件」なんて、せいぜい新商品のキャッチコピーを考えるとか、クライアントの無理難題に頭を下げるとか、そんなレベルだ。
それがなんだ?
「各部門の行動を統括」?
「指令を出す」?
無理無理無理、絶対に無理だ。
俺は、部下の平山一人すらまともに監督できなかった男なんだぞ。
「あの、副総帥……。
大変申し上げにくいのですが、私には、そのような大役は……」
「大丈夫ですよ」
俺の弱気な言葉を、リゲルは神の如き笑みで一蹴した。
「あなたならできます。私がそう判断したのですから」
その根拠のない、しかし絶対的な自信に、俺はぐうの音も出ない。
すると、いつの間にか部屋に戻ってきていた秘書の篠崎レイナが、すっと数冊の分厚いファイルを持って俺の前に立った。
相変わらずの無表情。
しかし瞳が、値踏みするように俺を見下ろしている。
「木村新部門長。こちらが、現在【黒銀】が並行して進めている案件の一部です。
目を通してください」
「は、はあ……」
俺は、おそるおそる一番上のファイルを受け取る。
表紙には、こう書かれていた。
『欧州複合企業【ユーロ・クロノス】による、
弊社傘下【八岐重工】への敵対的買収への対抗策の立案および実行プラン』
……敵対的買収。
ニュースでたまに聞く言葉だ。
だがその文字が持つ、生々しいまでの暴力性に俺は唾を飲んだ。
――これは、企業間の戦争だ。
俺は震える手でページをめくる。
そこに並んでいたのは、およそホワイトカラーの仕事とは思えない、
あまりにもダーティな報告書の数々だった。
『――【ユーロ・クロノス】CEO、
ジャン=ピエール・オルレアンのスキャンダル情報の収集。
第二機密部【紅夜】による、非合法な手段を含む調査を許可。
必要経費、約8億円――』
『――アフリカ、コンラッド共和国における新エネルギー資源「ヘリオドライト」の採掘権確保。
現地政府軍および反政府ゲリラ双方との秘密交渉。
第四機密部【白閃】による、交渉決裂時の物理的介入準備。
成功報酬および工作費用、約75億円――』
『――【八岐重工】の株価安定工作。
ダミー会社30社を介した、市場介入の準備。
想定される投入資金、120億円――』
……ひゃくにじゅうおくえん?
俺は、目を疑った。
ゼロの数を、何度も数え直した。一、十、百、千、万……億、十億、――百億。
間違いない。120億円だ。
……小国の国家予算レベル。
それが、一つの「工作」のために、当たり前のように計上されている。
非合法な調査?
反政府ゲリラとの交渉?
物理的介入?
――なんだそれは。
俺は、マフィアのボスにでもなるのか?
「……あの、篠崎さん?」
「副部門長、とお呼びください。あなたの部下になりますので」
「あ、はい、篠崎副部門長……。
この、ひゃくにじゅうおく……」
「【八岐重工】の防衛案件ですね」
篠崎レイナは、こともなげに言った。
「ユーロ・クロノスは、第五機密部が開発中の次世代エネルギー炉の基幹技術を狙っています。
これが奪われれば、財閥、ひいては日本のエネルギー安全保障は今後50年後退するでしょう。
木村部門長、あなたの『頭脳』で、この戦争にどう勝利するか。
お手並み拝見、といったところでしょうか」
「せ、戦争……?」
――もう、ダメだ。
情報量が多すぎる。
敵対的買収、非合法調査、120億円、そして企業間戦争。
あと、出てきまくる第三以外の機密部たち。
俺が48年間培ってきた常識のキャパシティを、完全にオーバーフローしてしまっている。
俺は、遠のいていく意識の中で、最後にリゲル副総帥のどこまでも楽しそうな声を聞いた気がした。
「期待していますよ、木村アキラさん。私の『脳』となって――。
その常識と判断力を、私に差し出してくれませんか」
――ああ、やっぱり。
これは、ドッキリでも何でもない。
あの報酬額のヘッドハンティングが、普通なワケない。
俺はとんでもない世界に、足を踏み入れてしまったのだ。
胃がきりきりと、悲鳴を上げはじめた。