第017話「断片から最適解へ」
歪鬽。
幽霊、吸血鬼、ドラゴン、神。
物語の中にしか存在しないはずの怪物たち。
そんなものが、この平和な現代日本にいる?
――馬鹿な。
俺の脳が、理解を拒む。
これはきっと何かの壮大な冗談だ。
そうだ、新入りの俺を試すための、手の込んだドッキリに違いない。
それにしては、少々悪趣味すぎるが。
「――冗談だと、思いますか?」
まるで俺のちっぽけな現実逃避を見透かしたかのように。
逆太刀シュウヤが刺すような冷たい言葉を投げてよこした。
その理知的な、しかしどこか人間離れした瞳がまっすぐに俺を射抜く。
――その顔に、柔和な笑顔を浮かべた青年はどこにも存在しなかった。
「だ、だって、そんなの……!
あったらもっと大騒ぎになってるはずでしょう!?」
俺はほとんど悲鳴のような声で反論した。シュウヤはそんな俺の哀れな抵抗にたいして、ちっちっち、と指を動かす。
「歪鬽は不条理そのものです。
――死骸か、あるいは向こうが何らかの意図を持ってこちらに姿を現さない限り、普通の人間には感知すらできない」
「その間も、奴らは好き勝手に我々の世界を蝕んでいく。
今、第五の目下の大目標として、歪鬽を一般人でも感知できるような装置を作ることを急いではいますが、残念ながらまだ成功には至っていません」
その淡々とした、しかし絶望的な言葉。
俺は言葉を失った。
まるで目に見えないウイルスと戦っているようなものではないか。
――いや、それよりも、もっと悪い。
「もちろん人間の中には、それを感知したり視認したり出来る者もいます。
第一の水守部門長や、第四の神開カナト副部門長のように」
俺は水守カスミの顔を思い浮かべる。
あれは、特殊能力に裏付けされた神聖さだったのか。
それに――神開副部門長?
初めてきいた名前だった。
その名前の響きからは、男女の区別もつかない。
「ですが、もちろんそれも全員じゃない。
あなたが今何も感じられないように、現状はこの車に乗っている誰も、その姿を直接捉えることはできないんです」
王であるリゲル様と、指揮官に任命された俺が見えない。
――それはつまり、目隠しでボクシングをしているようなものではないか。
一方的で、そしてあまりにも絶望的な戦い。
勝てるはずがない。
俺は、自分の顔から急速に血の気が引いていくのが分かった。
「――だからこそ」
リゲル様が、俺の砕け散った心を読むかのように、静かに、しかし力強い声で言った。
「あなたの、そして第三機密部【黒銀】の『頭脳』が必要なのです、アキラさん」
「……俺の頭脳が……?」
「ええ」
リゲル様の声は力強い。
それが、彼の覚悟なのだろう。
「我々は見えない敵と戦わなければならない。
故に断片的な情報と不確かな予測だけで、常に最適解を導き出す必要があります」
リゲル様はそこで一度言葉を切ると、俺の瞳をまっすぐに見つめた。
「……それは、あなたが昨日あの状況でやってのけたこと、そのものでしょう?」
その言葉と同時に。
黙って座っていた篠崎レイナが、すっと自らのタブレットを俺の目の前に差し出した。
「木村部門長。
昨夜23時、第二機密部の手により第一段階の情報操作が実行されました。
……その、結果です」
俺はおそるおそる、その画面を覗き込んだ。
そこに表示されていたのは、とある海外の暴露系ネットニュースの記事だった。
その、見出し。
『――聖人か、偽善者か。ユーロ・クロノス社CEO、ジャン=ピエール・オルレアン氏に、アフリカにおける環境汚染および児童労働への関与疑惑が浮上――』
……は?
俺は自分の目を疑った。
記事の中身を目で追う。
そこには俺が昨日、プレゼンで口にした「疑惑」の数々が、さも真実であるかのように巧妙な筆致で書き連ねられていた。
――証拠は何一つない。
だが読んだ者が思わず信じてしまいそうになる絶妙なリアリティ。
そしてその記事のコメント欄は、すでに大炎上していた。
「……う、そだろ……」
「嘘ではありません」
レイナが言い放つ。
「この記事は公開からわずか8時間で世界中に拡散。
【ユーロ・クロノス】社のヨーロッパ市場における今朝の寄り付きの株価は前日比でマイナス10パーセントを記録しました。すでに数兆円規模の時価総額が市場から消し飛んだ計算になります」
……え?
俺が昨日、たった数十分で考え出した悪戯のようなプランが。
たった一夜で、世界的な大企業の価値を数兆円、吹き飛ばした。
「……あ……ああ……」
俺はもはや言葉を発することもできなかった。
これは戦争だ。
俺が昨日始めた、これは本物の戦争だったのだ。
そしてその引き金を引いたのは、他の誰でもない、俺自身。
その重い現実が、巨大な津波となって俺のちっぽけな常識を完全に呑み込んでいく。
「ご理解いただけましたか、アキラさん」
リゲル様の声がどこか遠くに聞こえる。
「これがあなたの仕事です。
最適解を導き出す。それがライバル企業であっても。また、不条理の塊であっても。
……あなたにしかできない仕事です」
俺はただ、ガタガタと震えることしかできなかった。
……胃が、痛い。
頭も痛い。
心臓も痛い。
もう全身の全てが悲鳴を上げていた。
俺はこれから、ずっとこんなプレッシャーの中で生きていくのか。
(無理だ。絶対に無理だ……)
――だが。
俺の心の奥底で、ほんのひとかけらだけ残っていた、広告屋としてのしょうもないプライドが顔を出した。
(……すごい。俺のプラン、めちゃくちゃ効いてる……)
その黒い喜びが、俺の恐怖をほんの少しだけ上回った、その瞬間。
俺は自分が、もう二度と昨日までの平凡なサラリーマンには戻れないのだと、はっきりと悟ったのだった。




