第016話「不条理の名は〈歪鬽〉」
翌朝。午前7時。
いつもの朝の風景のはずだったのに。。
ただ今日はそのいつもの喧騒の中に、どこか奇妙でふわふわとした空気が混じっていた。
――全員が、どこか夢見心地だったのだ。
トーストをかじりながらスマホの画面を何度も確認しては、にやけているハルカ。
どこか遠い目をして、ぼーっとしているサキ。
いつもは無口なレンは変わらない――訳もなく。
「リゲル様ってどんなFPSするのかな……」と何度も俺に訊いてくる。
そもそもリゲル様に、ゲームをする時間などあるのだろうか。
――俺より、重大な仕事をずっとしているようなイメージだが。
ソラはいつも通り無邪気だった。
今日もまた、サッカーに精が出るのだろう。
そして、俺自身もそうだ。
鏡に映る自分の顔は相変わらず、疲れてはいる。
胃のあたりにもまだ、鈍い痛みの記憶がこびりついている。
――だが、鏡を見たとき。
瞳の奥には、昨日までの死んだ魚のような澱んだものは、もうなかった。
「じゃあ行ってくる」
俺は家族の誰よりも、少しだけ早く玄関のドアに手をかけた。
初出勤だ。遅刻などできるはずがない。
リゲル様は9時でいいと言ったが、それで良いはずがないと社畜魂が言っている。
もっと早く出るべきだろう。
『いってらっしゃーい』
家族たちの、まだどこか夢見心地な声に送られて。
俺はいつものようにドアを開けた。
そして、目の前の光景に完全に固まった。
ぶぉん、と。
静かすぎる、しかし圧倒的な存在感を放つエンジン音。
俺の目の前、この35年ローンの何の変哲もない一軒家の狭い庭先に。
映画の中でしか見たことのないような、――漆黒の巨大なリムジンが止まっていたのだ。
その、あまりにも周囲の風景から浮きまくった異様な光景に。
「え、あ、え?」
俺の口から意味不明な、感嘆詞が漏れた。
近所の早朝の犬の散歩をしていたおばさんは、ぎょっとしたようにこちらを見て足を止めている。
やめてくれ、そんなに見ないでくれ。
俺の家の前に止まっているわけでは決して、
……いや、どう見ても、うちの目の前だ。
そのリムジンの、黒く磨き上げられた後部座席のドアが音もなく開く。
そして中から聞こえてきたのは、昨日さんざん俺の鼓膜を震わせた、あの涼やかで神々しい声だった。
「おはようございます、アキラさん」
そこに座っていたのは。
昨日と同じ、完璧な顔で朝の挨拶をするリゲル様。
その隣には相変わらず、氷の仮面をつけたまま完璧な姿勢で座っている、我が第三機密部【黒銀】副部門長の篠崎レイナ。
そしてその近くに。
昨日、俺の脳のスキャンを要求してきた第五機密部【灰都】の部門長、逆太刀シュウヤが。
面白いものをみるように、にやにやとこちらを見ていた。
王と、マッドサイエンティストと、氷の女。
――なんだ、この絶対に乗り合わせたくない空間は。
「な、な、なぜ皆様がここに……?」
俺は完全に動揺しながら、そう尋ねるのが精一杯だった。
するとリゲル様はどこまでも穏やかに、そして当たり前のように言う。
「昨日はああ言いましたが、やっぱり少しお話がしたくて。
出勤の時間でしょうから、お迎えに上がりました」
お迎えに上がりました。
その自然に発せられた一言。
この人たちの常識では会社の部下を、リムジンで迎えに行くのは普通のことなのだろうか。
俺の、48年間の社会人生活の常識が朝っぱらから、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
「さあ、アキラさん。どうぞお乗りください。会社までお送りしますよ」
リゲル様が優雅に手招きをする。
断るという選択肢は、ない。
――
重厚なドアが、音もなく閉まる。
途端に、外の騒がしい朝の喧騒が嘘のように遠ざかった。
車内は完璧な防音が施されているようで、まるで深海にいるかのような絶対的な静寂に支配されている。
エンジン音すらほぼしない。震動もない。
初めて乗ったリムジンは、想像の数倍は広かった。
俺とリゲル様、逆太刀シュウヤ第五部門長、そして篠崎レイナの四人が向かい合わせに座っても、まだ足を伸ばしても前の席に届かないほどの空間的な余裕がある。
内装は上質な本革張り。
ミニバーのようなものまで備え付けられている。
これが、この人たちの日常の移動手段。
俺が毎朝満員電車に揺られて、他人の汗とため息にまみれていたのとは、世界が違いすぎる。
「ちょっと大仰で申し訳ありません。周りの人驚かせてしまいましたかね」
リゲル様が申し訳なさそうに、しかしその瞳の奥は明らかに楽しんでいる様子でそう言った。
驚いたどころの話ではない。明日から俺は近所で「朝リムジンが迎えに来る謎の男」として有名人になってしまうだろう。ありがたくない有名税だ。
「――ただ、少し大事なお話があるんですよ」
リゲル様のその一言で、車内の空気が一変した。
今まで、俺のことを面白い観察対象として眺めていた逆太刀部門長が、すっとその子供のような笑みを顔から消した。
レイナは、元より氷の仮面を崩していない。
そしてリゲル様のその穏やかな天使の笑みも、今はどこか違う響きを帯びていた。
初めて見たその顔に、息を呑む。
「……大事なお話」
俺はごくりと喉を鳴らした。
心臓が嫌な音を立てて脈打つのを感じる。
「――それは昨日、逆太刀第五部門長が言っていたリゲル様の理念。
『不条理に立ち向かう』とか――」
「はい。察しが良くて助かります、アキラさん」
リゲル様は静かに頷いた。
そして、その底知れない蒼い瞳でまっすぐに俺を見据えた。
「ときにアキラさん。
この世の『不条理』とは何を指すと思いますか?
私が立ち向かおうとしている不条理はなんでしょう?」
「……え?」
哲学的で、壮大な問い。
俺は言葉に詰まった。
「機密部が普通の組織でないことはもう、理解し始めていると思います」
俺はなんだか言葉を紡いだ。
正直よく分かっていなかったからだ。
ただ頭に浮かんだありふれた言葉を並べるしかなかった。
昨日まで普通の広告代理店でサラリーマンやってた男だぞ。
――急に言われても、分からない。
「……び、病気とか……事故とか……貧困とか、ですかね……?」
「ええ。それもそうですね」
俺の言葉をうけて、リゲル様のその美しい顔がほんの少しだけ悲しげに翳った。
「――私の母親は症例のほぼない不治の病で、私が五歳の時にこの世を去りました。
それはたしかに、相川財閥の金も技術も全く意味をなさなかった一つの――、絶対的な《《不条理》》です」
そのあまりにも個人的な告白に、俺は息を呑んだ。
この完璧に見える若き王も、その華やかな経歴の裏側で、俺などには想像もつかないほどの喪失と絶望を経験してきたのだ。
「でも、それらは僕が立ち向かう中の、半分に過ぎません」
「……半分?」
「ええ。アキラさん。
この世にはもう一つの、我々がまだ気づいていない、
あるいは気づくことすら許されない強大な『脅威』が存在するのです」
リゲル様は、そこで一度言葉を切った。
そして、世界の禁忌に触れるかのようにその声を、潜めた。
「たまに、ニュースなどで見ませんか?
――原因不明のガス爆発。
死傷者が出た大規模な陥没事故。
あるいは集団ヒステリーと片付けられてしまう不可解な事件の数々。
……あれはそのほとんどは原因が他にあり。第一機密部【碧命】が世論をコントロールするために形成したカバーストーリーなのです」
「……カバーストーリー……?」
――どういうことだ?
では、あの事件や事故の本当の原因は一体何だというのだ。
俺の混乱を見透かすように。
リゲル様は最後の、そして最も衝撃的な真実を告げた。
「幽霊や吸血鬼、ドラゴンや……時には神にいたるまで。そういった物語の中でしか存在しないように思える、僕たちの常識の理の外で活動する存在たち。
不条理の塊であり、不可視の脅威。
――僕たちはそれらを総称して『歪鬽』と呼んでいます」
……ひずみ。
この世の歪み。
その言葉が、まるで呪いのように俺の脳髄に深く深く刻み込まれた。
俺が、昨日まで生きてきた平和で平凡な日常。
その薄い一枚の皮の下には、神話と伝説が息づくもう一つの世界が広がっていたのだ。




