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第014話「家の灯と若き王」

 あの、嵐のような家族会議の後。

 俺は、なんとか妻と子供たちに、今回のあまりにも唐突な転職を(半ば強引に)納得させることができた。

 もちろん、会社の名前も具体的な仕事内容も、話せてはいない。

「外資系のすごいコンサルティング会社みたいなものだ」という、我ながらあまりにも苦しい嘘をついて。

 だが家族は、それ以上何も聞かなかった。

 ただレンの言った「いつもの、死んだ魚みたいな目じゃない」という言葉が、妙な説得力を持って、この場の空気を支配していた。


 俺は久しぶりに、家族全員で温かい夕食を食べた。

 生姜焼きは、少ししょっぱい味がした。


 そして、夜。

 俺が、風呂上がりにリビングで、ぼんやりとテレビを眺めていた、その時だった。

 時刻は21時を、少し回った頃。


 ――ピンポーン。


 不意に玄関のインターホンが鳴った。

 こんな時間に誰だろうか。

 宅配便の再配達を頼んだ覚えはない。


「はーい」

 リビングから一番玄関に近い場所にいた長女のハルカが、パタパタとスリッパの音を立てて、モニターを覗きに行った。


 そして、次の瞬間。


「――ひゃああああああああっ!?」


 聞いたこともないようなハルカの悲鳴が、家中に響き渡った。


「な、なんだ!? どうした、ハルカ!」


 俺は慌ててソファから立ち上がる。

 ……強盗か!?


 娘を助けようとリビングのドアを開けると、そこには玄関でモニターに食いつくようにして、全身をわなわなと震わせている娘の姿があった。


「ど、どうしたんだ、そんなに大声出して……」

「お、お父さん……! 

 や、ヤバい……! ヤバいのが、いる……!」

「ヤバいの?」



「とんでもないイケメンが、いるッ!!!」


 ……は?

 イケメン?

 何を言っているんだ、こいつは。


 俺は娘のその、あまりにも場違いな絶叫に拍子抜けしながらも。

 訝しげに、玄関のモニターを覗き込んだ。


 ――そして、絶句した。


「……こんばんは。

 夜分に、申し訳ありません。

 木村アキラさんのご自宅でいらっしゃいますか?」


 モニターの向こう側。

 そこに立っていたのは、王だった。

 今日の午後、俺が人生で最も完璧な土下座を捧げた、あの、青年。

 相川リゲル副総帥、本人だった。


「な……ななな、なななな、なんで、リゲル様が、ここに!?」


 俺は完全にパニックに陥った。

 何事かとリビングから、妻のサキも顔を出す。


「どうしたの!?

 そんなに慌てて……って、え……?」


 彼女もまたモニターに映る、あまりにも現実離れした美貌を持つ青年の姿を見て、完全に動きを止めた。


 彼はその手には、どう見ても一目で分かる超高級洋菓子店の、上品な紙袋を、一つ提げている。


 ……まさか。


 まさか、この人は。

 俺の家族を、不安にさせまいと。

 今日のあまりにも、無茶苦茶な俺の転職劇のフォローをするためだけに。

 わざわざこんな、庶民の住む35年ローンの一軒家まで、足を運んでくれたというのか。


 ――だとしたら、その気遣いは神のそれだ。

 だが。同時にとてつもなくありがた迷惑な、神の気まぐれでもあった。


「お、お父さん!

 この人誰!? 

 お父さんの、お知り合い!? 

 モデル!? アイドル!?」


 隣でハルカが、完全に興奮状態で俺の腕をバンバンと叩いている。

 その目は完全にハートマークになっていた。

 無理もない。モニター越しですらこの破壊力なのだ。

 実物を見たらうちの娘は、ショックで失神してしまうかもしれない。


「……あ、あなた……」


 妻のサキもまた本物のトップアイドルを、目の前にしたかのような完全に乙女の反応だった。

 頬を朱に染め、その場で固まってしまっている。


 俺はどうすればいい。


 この、若き王を家に上げるのか?

 この生活感に満ち溢れた、4LDKに?


 あまりにも不釣り合いすぎる。

 だが、このまま玄関先で待たせておくわけにも、いかない。


 俺が人生で、最大級の板挟みにあっていると。


「アキラさん? そこにいらっしゃいますよね?」


 モニターの向こうで、リゲル様が小さく首を傾げた。

 彼は俺が家にいることに気づいている。

 確信を持ってきているのだろう。


 ――俺は。覚悟を決めた。


「……すぐ、開けます!」

 俺は震える手で鍵を開け、玄関のドアをゆっくりと、開いた。


 そこに立っていた実物の相川リゲルは。

 モニターで見るよりも百倍――いや、千倍は美しくそして、神々しかった。


「……夜分に、本当に、申し訳ありません。木村部門長」


 彼はどこまでも柔らかく、そしてどこまでも丁寧な口調で、そう言った。


「少しだけ、奥様達とお話させていただけますか?」


 その完璧な、貴公子の笑みに。

 俺の妻と娘が同時に、小さな悲鳴を上げてその場に崩れ落ちそうになるのを、

 俺は、ただ呆然と見ていることしかできなかった。


 我が家に神が降臨した。

 俺の胃はもはや麻痺して、何も感じなくなっていた。


――――


 王が我が家の、安物のソファに座っている。


 その、あまりにも非現実的な光景を前に、俺はもはや正常な思考を完全に放棄していた。

 半ばやけくそになりながら、俺はリゲル様をリビングに案内した。


 妻のサキは完全にフリーズしている。


 長女のハルカはソファの隅で、スマホを構えながらもその神々しさに気圧されてシャッターを押すことすらできずに、わなわなと震えている。


 ――と、リゲル様は軽くハルカのスマホに手を触れて。


「申し訳ありませんが、撮影や録音は」


 その言葉だけで、充分だった。

 声をかけられ、触れられるほどの距離に近づかれたハルカは、それだけでぶんぶんと頭を縦に振り、顔を真っ赤にしてソファにへたり込んでしまう。


 長男のレンは読んでいた本から顔を上げ、目の前の現象を信じられないものを見るかのように凝視していた。

 唯一状況を理解していない、次男のソラだけが「この、きれいなお兄ちゃん、だあれ?」と、無邪気に俺のズボンを引っ張っている。

 5分前まで眠くてうつらうつらとしていたのが、嘘みたいだ。


 やめてくれ、ソラ。

 その方は、本物の王だ。

 触れてはいけないはずだったんだ。


 そんな木村家の、混沌と緊張が飽和状態に達した、その空間で。

 リゲル様はどこまでも優雅に、そして穏やかに口を開いた。


「はじめまして。

 奥様。そしてご子息、ご息女様方。

 相川財閥副総帥の、相川リゲルと申します」


 その涼やかな声。

 テレビの向こう側でしか聞いたことのない、雲の上の存在の自己紹介。


 サキがはっと我に返ったように、慌てて深々と頭を下げた。


「あ、あ、あの、妻のサキと申します! 」


 リゲル様はそんな、俺たち家族の滑稽なまでの狼狽ぶりを、心配するやら楽しむやら。

 ニコリと微笑むと、本題を切り出した。


「今日、私がこうして伺ったのは他でもありません。

 ……木村さんにお願いするお仕事について、ご説明するためです」


 その言葉にサキが、息を呑んだのが分かった。

 俺も驚いてリゲル様の方を見た。


 俺が入ったのは機密部で、さらにそのトップの一角になる。

 リゲル様が言っていたはずだ。職員の在籍も公開されない、機密部署だと。何も話せるはずが、ない。


 一体何を、どうやって説明するつもりなんだ?


「もちろん、その全てをお話しすることはできません。

 ですが私が木村さんを、どれほど必要としているのか。

 ――そして彼がこれからどれほど重要で、誇り高い役割を、担ってくださるのか。

 ……それを私の口から、直接お伝えしご家族の皆様の不安を、少しでも取り除きたかったのです」


 彼はそう言うと、俺が昨日までいた世界とは全く違う世界の、

 そして俺がこれから足を踏み入れる世界の物語を、静かにそして誠実に語り始めた。


 難しい言葉は、一つもなかった。


 彼が語ったのは相川財閥が、ただの利益追求団体ではなく。

 リゲル様自身がこの国の、そして、世界の未来を本気で憂いているということ。


 その未来をより良い方向へと導くために表の経済活動だけでは決して手の届かない数々の「敵」と、

 影で、戦い続けているということ。


 そしてその戦いにおいて現状持ちうるもの――権力や、金や、天才的な頭脳――だけでは決して辿り着けない、「正しい答え」があるということ。

 その最後の、そして最も重要なピースを埋めることができるのは、長年平凡な、しかし真っ当な社会で常識と良識を培ってきた木村アキラただ一人なのだ、と。


 それは俺が今日彼からあるいは、篠崎レイナ副部門長から聞いたどの言葉よりも。

 誠実で。そして重い響きを持っていた。


 嘘や、ごまかしなど一切ない。

 ただ純粋な、若き王の覚悟の言葉。


 話が終わった時、リビングは静まり返っていた。

 サキも、ハルカも、レンも。

 ただ、黙って、彼の言葉に、聞き入っていた。


 やがてリゲル様は、ソファからすっと、立ち上がると。

 俺の。そして、俺の家族の、目の前で。

 ゆっくりと、その場で腰を曲げ。


 ――深々と頭を、下げたのだ。


「どうか、ご家族様方。

 あなたたちのご主人を、父を。

 私にお貸しいただけないでしょうか」


 王が自ら家臣の家族の元を訪れ、その夫を貸してほしいと。

 土下座ではない。


 だがこれは、それ以上に重い最敬礼。

 その行動が、どれほどリゲル様が本気なのかを物語っていた。




「……顔を、上げてください」


 震える声でそう言ったのは、妻のサキだった。

 彼女の目には、涙が浮かんでいた。

「……主人がそれほどまでに必要とされる場所が見つかったのなら。……妻としては、反対する理由など、ありません」


 その言葉に俺はもう、何も言えなかった。

 俺はこの時、家族の絆と。

 そして俺がこれから仕える若き王の、本当の「器」の大きさを同時に知ったのだ。


「――ありがとうございます」


 リゲルは、静かに、顔を上げた。

 その顔にはもはや、王でも神でもない――。

 ただ、共に戦う仲間を得た一人の青年の、安堵の表情が浮かんでいた。


 胃の痛みは、もうなかった。

 代わりに胸の奥に、熱い何かが込み上げてくるのを、感じていた。



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