第013話「父さん、今日会社やめたんだ」
自宅の一軒家の前に立ったのは、19時をまたぐ頃だった。
正直に言って、想定よりも、かなり早い帰宅だ。
広告代理店【ブリニニア】にいた頃なら、こんな時間に帰れることなど、年に数回あるかないかの奇跡だった。
そういう意味では、新しい職場は、ホワイトなのかもしれない。
……まあ、その仕事内容が、限りなく黒に近い、というか、もはや暗黒そのものなのだが。
俺の胃はまだ、ずっとしくしくと、鈍い痛みを訴え続けていた。
これから家族に。
妻と子供たちに、どう伝えればいいのだろうか。
――今日、ブリニニアで俺の部下が、親会社の超VIPを、殴りつけたこと。
――俺が、全責任を負わされて、一人で謝罪に行ったこと。
――その結果、なぜか、その超VIPに、ヘッドハンティングされたこと。
――そして、ブリニニアを退職し、新しい会社に即座に転職したこと。
……わけのわからないストーリーだ。
まるで、三流のラノベか、B級映画の脚本だ。
俺が妻のサキの立場なら絶対に、信じないだろう。
「あなた、疲れてるのよ」
「何か、変な宗教にでも勧誘されたんじゃないの?」と、本気で心配されるのがオチだ。
玄関のドアの前で、俺は、深呼吸を繰り返した。
おどけて「父さん、実は今日会社やめたんだ」なんて、言えるはずもなく。
――何も言わなければ、何も知られないだろう。
いつも通り、「ただいま」とドアを開け、いつも通りの夕食を食べ、いつも通りの、当たり障りのない会話をする。
転職のことはタイミングを見計らって、後日もっともらしい嘘を並べ立てて、説明すればいい。
それが、最も、簡単で、波風の立たない選択肢だ。
しかし、それは家族としてあまりにも、不義理ではないだろうか。
俺が、あの副総帥室でたった一人、土下座をした時。
俺の脳裏に浮かんだのは他でもない、家族四人の顔だった。
この家族を守るためなら、俺は、なんだってできる。
プライドも、キャリアも、全て、捨てられる。
そう、覚悟を決めたはずだ。
そんな家族に、嘘をつくのか?
これから、世界の裏側で、命を張るかもしれないというのに。
その、最初の第一歩を、嘘で始めるのか?
「……ダメだ、な」
俺は、小さく、呟いた。
腹を、括るしかない。
たとえ、信じてもらえなくても。
たとえ、馬鹿だと思われても。
俺は正直に話すしかないのだ。
俺は、震える手で鍵を取り出し、ドアを開けた。
「……ただいま」
途端に家の、いつもの匂いが俺を包み込んだ。
味噌汁の、温かい匂い。
パタパタと軽い足音が聞こえ、リビングから妻のサキが顔を出す。
「おかえりなさい、あなた。
……あら、早かったのね。って、え……?」
彼女は、俺の顔を見るなり、その優しい瞳を、心配そうに、大きく見開いた。
「あなた、どうしたの? 顔、真っ青よ……?」
その純粋な心配の言葉が、俺の張り詰めていた最後の理性の糸をぷつりと、断ち切った。
俺は玄関の床に、へなへなと崩れ落ちるように座り込んでしまった。
「……サキ」
「え、ちょ、あなた!?」
「……俺、今日……会社、クビになった……かもしれん……」
我ながら最低の第一声だった。
そして、それは厳密に言えば嘘だった。
だが、今の疲れ果てた俺の口から出たのは。
そんな、情けない、半分の真実だけだった。
―――
ダイニングテーブルの上には、湯気の立つ、温かい食事が並んでいた。
豚の生姜焼き、豆腐とわかめの味噌汁、ほうれん草のおひたし。
――そして、炊き立ての白いご飯。
俺が一番好きな、木村家のいつもの夕食。
だが今の俺には、それを味わう余裕などひとかけらもなかった。
木村家の全員が集まっている。
俺の正面には、心配そうな顔でしかし、静かに俺の言葉を待っている、
9歳年下の、妻のサキ。
その隣にはちらちらと俺の様子を窺っている。
17歳、高校2年生の長女、ハルカ。
少し離れたソファには本を読んでいるが、間違いなくこちらの会話に集中している、
14歳、中学2年生の長男、レン。
そして、俺の足元で無邪気にサッカーボールを転がしている。
10歳、小学4年生の次男、ソラ。
いつもの、我が家の光景。
――だが、今日の俺はこのあまりにも平和で、当たり前の光景の中にいる異物だった。
俺はぽつりぽつりと、事の顛末を話し始めた。
「……その、今日。会社で、ちょっと、トラブルがあって……」
俺の歯切れの悪い言葉に、サキがこくりと、頷く。
「俺の部下が……その、親会社の人を、怒らせてしまって……」
俺はさすがに「殴りつけようとした」とは言えず、言葉を濁した。
「それで、まあ色々と、その責任問題、みたいな話になって……」
「……それで、クビになったの?」
サキが、恐る恐るそう尋ねる。
俺は、首を横に振った。
「いや……クビには、ならなかった。
ならなかった、んだが……」
「じゃあ、よかったじゃない」
「よくないんだ。それが、全然、よくなくて……」
俺は言葉を選び、必死にこのあまりにも非現実的な出来事を、家族に理解してもらえるように、説明を試みた。
「……その、親会社の人が俺のことを、なぜか気に入ってくれて……」
「気に入って?」
「ああ。それで、その場でうちの会社に来ないか、と……ヘッドハンティング、されたんだ」
「ええっ!?」
サキが、素っ頓狂な声を上げた。
今までスマホをいじっていたハルカも、顔を上げる。
レンの、本をめくる手がぴたりと、止まった。
「ヘッドハンティングって……すごいじゃん、お父さん!」
ハルカが、少し、興奮したように言う。
「どこの会社? 有名なところ?
やったじゃん! 給料とか、上がるんでしょ?」
「……まあ、うん。今の、何倍、だろうな……」
俺は、あの、ゼロがやたらと多かった契約書のことを思い出し、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
正直、衝撃過ぎてよく覚えてなかった。
「……それで、お父さんどうしたの?」
今まで黙っていた、長男のレンが静かに、しかし核心を突く質問を投げかけてきた。
俺は一度、目を閉じた。
そして覚悟を決めて、言った。
「……その場で【ブリニニア】を、辞めた。
そして、その、新しい会社に転職した」
「…………は?」
リビングが、静まり返った。
聞こえるのは、壁にかかった時計の、秒針の音だけ。
その沈黙を破ったのは、妻のサキだった。
「……あなたそれ、本気で言ってるの?」
その声は、震えていた。
「相談もなしに? この時期に?
ハルカとレンの受験もあるのよ?
それなのに今の会社を、今日突然辞めたって……どういうことなの?」
「いや、だから、それは……」
「そのヘッドハンティングっていうのも、本当なの?
何か、騙されてるんじゃないでしょうね!?」
サキの当然の、そしてあまりにも真っ当な心配の言葉が、俺の胸に、ぐさぐさと突き刺さる。
そうだ。普通は、そう思う。
俺だって、逆の立場なら、絶対に、同じことを言うだろう。
だが、どう説明すればいい?
転職先は、相川財閥の、秘密の部署で、詳しいことは、家族にも言えない、などと。
そんなこと、信じてもらえるはずがない。
俺が、言葉に詰まっていると。
「……いいんじゃない」
ぽつり、と。
そう呟いたのは、意外にも、今まで、ずっと黙っていた、長男のレンだった。
「え……?」
俺が、驚いて、レンの方を見る。
彼は、読んでいた本を、ぱたん、と閉じると、まっすぐに、俺の目を見て、言った。
「父さんが、自分で考えて、決めたことなんでしょ」
「レン……」
「それに、その……顔。いつもの、会社に行く時の、死んだ魚みたいな目じゃ、ないから」
その息子のぶっきらぼうな、しかし全てを見通しているかのような、言葉に俺はハッとさせられた。
――そうだ。
俺は今、とんでもなく疲れてはいる。
絶望もしている。胃も痛い。
だが、ブリニニアにいた頃の。
あの、全てを諦めきった生ける屍のような絶望とは、何かが、違うのだ。
「……そうよ、お母さん」
今度は、ハルカが、レンに続くように、口を開いた。
「お父さん、いつも会社の愚痴ばっかりだったじゃん?
こんなにはやく帰ってきたのも初めてだし!
やっと、そんな会社辞められたんだから、よかったんじゃないの?
給料も、上がるんでしょ? やったじゃん!」
そのどこまでも、あっけらかんとした現代的な娘の言葉。
そして最後に、妻のサキが「はぁー……」と、深いため息を一つ、ついた。
「……もう。あなたたちまでそんな、無責任なこと言って……」
彼女はそう言いながらも、その表情は先ほどまでの、ヒステリックなものではなくなっていた。
サキはゆっくりと立ち上がると、俺の前にしゃがみこんだ。
そして温かい手で、俺の冷え切った手をぎゅっと握りしめた。
「……分かったわ」
彼女は、言った。
「あなたがちゃんと決めたことなら、私は信じる。
……でも、一つだけ、約束して」
「……ああ」
「ちゃんとこの家に、帰ってくること。
……それだけ、約束できる?」
その当たり前の、しかし。
今の俺には何よりも重い、約束。
俺の目から何かが、ぽろりとこぼれ落ちた。
「……ああ。約束、する……!」
木村家の奇妙で、そして長い夜は、こうしてゆっくりと更けていく。
俺はこの温かい光を守るために。
明日からあの変人だらけの、地獄のような職場で戦っていくのだ。
胃が痛い。
だが、俺はもう一人ではなかった。
――ただ、今日がこれで終わらないとは、想像できていなかったのだ。




