第010話「影と武の部門長」
水守カスミという歩く神話のような存在に、俺の精神が完全に呑み込まれかけていたその時だった。
副総帥室の扉が、静かに開いた。
そこに立っていたのは――。
……くたびれたスーツを着た、眠そうな目をした猫背の男だった。
40歳前後だろうか。
手にはコンビニのビニール袋が、がさりと音を立ててぶら下がっている。
無精髭。
寝癖のついた、手入れされているのかどうかも怪しい髪。
その姿は連日の徹夜と無理な営業で心身をすり減らした、中小企業のサラリーマンそのもの。
俺は、思わず我が目を疑った。
なんだ、この男は。
どこかの業者が出入り口を間違えたのか?
そう思ってしまうほどの、場違い感。
その光のない、死んだ魚のような澱んだ黒い瞳。
覇気のかけらも感じられない、だらしない立ち姿。
それは、つい数時間前の俺自身を見ているかのようで。
俺はある種の強烈な親近感すら覚えていた。
(……お疲れ様です、同志よ)
心の中で、思わず敬礼する。この神々の住まう天上世界で、俺と同じ、地に足の着いた……着きすぎた世界の人間に出会えるとは。
少しだけ、ほんの少しだけ俺の心に安らぎが訪れた。
――だが次の瞬間、リゲル副総帥が放った言葉が。
俺のその淡い期待を木っ端微塵に粉砕した。
「紹介します。彼が、第二機密部【紅夜】の部門長、久賀理人さんです」
……だいに、きみつぶ?
この今にも過労で倒れそうな、うだつの上がらない中年男が?
あの【対ユーロ・クロノス社】の資料で見た非合法な調査だの、スキャンダルの収集だのを担うという、スパイたちの元締めだと?
俺の脳が理解を拒否してショートしかけているのを完全に無視して、久賀理人と呼ばれた男はだるそうに、ぺこりと頭を下げた。
「……どもっす。あ、リゲル様、エナドリ飲みます?」
彼はコンビニの袋から、キンキンに冷えたエナジードリンクの缶を取り出すと、こともなげにリゲル副総帥に差し出した。
俺は、眩暈がした。
この財閥の若き王に、コンビニで買ってきた200円そこらのエナジードリンクを?
しかも、その態度はまるで会社の同僚にジュースをおごるかのように、あまりにもフランクだ。
無礼打ちにされるぞ、あんた。
俺は、本気でそう思った。
――だが、リゲル様の反応は俺の想像の斜め上を、軽々と飛び越えていった。
「いただきます。理人さん、アキラさんに第二の役割をかんたんに説明して差し上げてください」
リゲル様はにこやかに、そしてどこまでも丁寧な口調でそう言うと、差し出されたエナジードリンクを自然に受け取ったのだ。
その光景は、あまりにも、シュールだった。
神々しいまでの美貌を持つ、若き王。
その隣に全てを見通すかのように佇む、聖なる巫女。
そしてそんな二人の前で、だらしなくエナドリの缶を開ける、くたびれた中年サラリーマン。
なんだこの、絶望的なまでにちぐはぐな空間は。
「へーい」
久賀理人は、気の抜けた返事をすると、俺の方にその死んだ魚の目を向けた。
「ウチは情報を集めるだけっす。
リゲル様が知りたいこと。知らなければならないこと。
各部門が判断に必要なこと……。まあ、機密部の目と耳みたいなもんすかね」
「は、はあ……」
なるほど。諜報部ということか。
そこまでは理解できる。
だが、彼は眠そうに頭を掻きながら、とんでもない言葉を平然と付け加えた。
「……あと、たまに必要とあらば、人の記録も消します。
物理的な消去は第四の仕事っすけどね」
ひゅっ、と。
俺の喉が、引き攣った音を立てた。
第二【紅夜】は記録を、消す。
そして、第四【白閃】は物理的な消去。
それは、つまり……。
目の前の、この、くたびれたサラリーマンは、今、当たり前のように、「殺し」の話を、したのだ。
まるで、「シュレッダーかけるのは総務の仕事っすけどね」とでも言うような、あまりにも、日常的な口調で。
さっきまで感じていた、親近感など、跡形もなく消え失せた。
代わりに、俺の全身を、氷のような、絶対的な恐怖が、支配していた。
この男は、ヤバい。
神々しい女神(水守カスミ)とは、全く別の種類の、底知れない、得体のしれない、化け物だ。
彼は、俺が今まで生きてきた「常識」の世界の、すぐ隣にある、しかし決して交わることのない、「裏側」の住人なのだ。
俺は、今、その世界の、入り口に、立たされている。
「……よろしく、お願い、します」
俺は、震える声で、そう言うのが精一杯だった。
久賀理人は、「うっす」とだけ言うと、もう俺への興味を失ったかのように、ぷしゅ、と自分の分のエナジードリンクのプルタブを開けた。
ああ、もう、帰りたい。
今すぐ、この場から、逃げ出してしまいたい。
俺の、そんな悲痛な心の叫びが聞こえているのかいないのか、副総帥室の扉が、三度、その重々しい口を、ゆっくりと、開き始めた。
―――
扉が開く。
そこに立っていたのは今まで入室してきた二人とは、全く異質な空気を纏った女性だった。
特殊部隊のような機能性を突き詰めた黒い戦闘服。
そのしなやかな身体のラインは、厳しい訓練によって鍛え上げられた鋼の肉体を物語っている。
腰のホルスターには、無骨なデザインの拳銃。その姿は、およそ財閥本社の役員室に現れるような人間のものではなかった。
――ていうか本物、だよな?
銃刀法、どこにいったんだ……?
だが、俺が何よりも息を呑んだのは、その顔立ちだった。
戦闘服の無機質さとは対照的に、彼女の顔はぞっとするほどに美しかった。
長い黒髪に、切れ長の強い意志を宿した赤い瞳。
もし、水守カスミが「聖」を司る女神であり、
久賀理人が「影」に潜む怪人であるならば。
今、目の前に現れたこの女は「武」そのものだった。
人の身でありながら、戦うために殺すために、その肉体と精神を極限まで研ぎ澄ました純粋な暴力の化身。
その、鋭い刃のような瞳がまっすぐに、俺を射抜いた。
値踏みするような――、いや、違う。
これは、もっとあからさまだ。
虫けらでも見るかのような、完全な見下すような視線。
彼女は俺の頭のてっぺんから、履き古した革靴のつま先までを、ゆっくりと品定めするように眺めると。
ふん、と綺麗に整った鼻をわずかに鳴らした。
そして、その薄い唇から、言葉の刃を、俺の心臓めがけて、容赦なく突き立てた。
「……弱そうですね」
ぐさり、と。
物理的な痛みを、確かに感じた。
事実だ。
その通りだ。
おっしゃる通り、俺は弱い。
この20代そこそこにしか見えない女性兵士に、腕相撲ですら勝てる気はしない。
だが、事実だからこそ。
その言葉は俺の、しがない中年としてのちっぽけなプライドを、深く深く傷つけた。
俺が屈辱に顔を歪ませるのを一瞥すると、彼女はもう俺など存在しないかのように、その視線をリゲル副総帥へと向けた。
そして、一切の躊躇なくその不満を、鋭い言葉に乗せてぶちまけ始めた。
「お言葉ですが、リゲル様」
その声は、水守カスミのそれとは違う。
硬質で、凛とした響きを持っていた。
だが、その根底に宿るリゲル様への絶対的な忠誠心だけは、同じ種類のものだと俺にも分かった。
「この度の人事、いささか――、いえ。
全く理解致しかねます。
何故、このような男を第三【黒銀】の部門長に?」
このような、男。
俺は歯を食いしばった。
「【黒銀】は、我々全部門の司令塔。
その判断一つで、我々のそしてリゲル様ご自身の命運すら左右される、最重要拠点です。
そこにこのような……実戦経験も、覚悟も感じられない。
ただの民間人を据えるなど。
あまりにも危険すぎます」
彼女の言葉には棘があった。
いや、棘どころではない。
明確な敵意と、俺に対する「認めない」という絶対的な拒絶の意思が、込められていた。
俺が立案した、あの作戦。
第四機密部の「武力」をほとんど必要としない、あのプラン。
その内容が、すでに彼女の耳にも入っているのかもしれない。
自分たちの存在価値をないがしろにされたと、そう感じているのだろうか。
彼女のあまりにも真っ直ぐな、そして無礼とも取れる言葉。
俺はリゲル副総帥が、どう反応するのか恐ろしくてたまらなかった。
部下の無礼を叱りつけるのか。
それとも彼女の意見に同調し、俺の人事を取り消すのか。
――だがリゲル様の反応は、またしても俺の想像を超えていた。
彼は怒りも失望も見せない。
ただ、どこまでも柔らかく――。
そしてどこまでも丁寧な口調で、静かに彼女に問いかけた。
「トウカさん。あなたの言うことも、分かります」
「では……!」
「ですが、アキラさんの持つ『力』は、トウカさんのそれとは、種類が違うのですよ」
「……力、ですって? この男のどこに……」
トウカと呼ばれた彼女の、侮蔑に満ちた視線が再び俺を刺す。
やめてくれ。もう、俺のライフはゼロだ。
リゲルはそんな俺の心の叫びなど知る由もなく、楽しそうに言葉を続けた。
「あなたは、私の『盾』であり、『矛』です。
その武力は誰よりも信頼しています。
ですが、全ての戦いが力だけで決まるわけではない。
――そうでしょう?」
「……それは……」
「アキラさんのプランは血を流さず、最小のコストで敵の最も嫌がる場所を突く。
それは、あなたには決して立てられない作戦です。
そしてその『常識』という名の物差しは、我々のように常識から外れてしまった者たちには、何よりも必要なものなのです」
その言葉は俺を庇っているようでいて、同時に俺と彼らとの間にある、決して埋まることのない断絶を改めて浮き彫りにするかのようだった。
トウカはそれでも納得できない、といった表情で唇を噛み締めている。
部屋の中にピリピリとした、一触即発の緊張が走る。
水守カスミは相変わらず、女神のような微笑みを浮かべて、この茶番を楽しんでいるようだ。
久賀理人は我関せずと、エナジードリンクをちびちびと飲んでいる。
――ああ、もう。
俺は、どうすればいいんだ。
このあまりにも美しく、そしてあまりにも危険な、猛犬のような女に。
俺はこれから、司令官として命令を下していかなければならないというのか。
頭を悩ませる前に、4度目の扉が開いた。




