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第001話「凡人の土下座と非凡への招待」

 人生は、選択の連続だと言う。

 

 俺は木村アキラ、48歳。

 広告代理店【ブリニニア】のしがない中間管理職。部長。

 3人の子持ちで、持ち家の35年ローンはまだたっぷり残っている。

 

 ――そんな俺が今、人生で最も重要な選択を迫られている。

 

 否。

 選択した結果が、これだ。


「この度は、私の監督不行き届きにより、

 相川副総帥に多大なるご迷惑と、ご不快な思いをさせてしまいましたこと、

 誠に、誠にっ、申し訳ございませんでしたっ!」


 額を、絨毯に擦り付ける。

 ふかふか、という生易しい感触ではない。

 一本一本の毛が高密度に編み込まれ、究極の弾力性で俺の額の皮膚をぐりぐりと押し返してくる。

 一枚いくらするのか想像もつかない最高級の絨毯。

 

 その感触が、絶望的なまでに現実を俺に突きつけていた。

 


 ここは相川財閥本社ビル、66階。

 俺のようなサラリーマンが本来なら、生涯足を踏み入れることのない場所だ。


 その神域の主。

 日本の経済界を裏から支配するとまで言われる相川財閥の若き副総帥、相川リゲル。

 その御前で俺は今、人生で最も完璧なフォームの土下座を披露していた。


(終わった。俺の人生、マジで終わった……)


 額から、背中から、嫌な汗が滝のように流れる。

 心臓が、肋骨を内側から殴りつけているかのようにうるさい。


 脳裏にフラッシュバックするのは、つい3時間ほど前の光景だ。




 俺の部下のひとり、平山シゲル。

 入社3年目、父親は我が社のメインバンクの幹部。

 ほぼ、コネ入社の男。


 そんな彼が、親会社から視察に訪れていた相川リゲル副総帥の、神が創りたもうたとしか思えない完璧な横顔に、渾身の右ストレートを叩き込まんとしたのである。


 ――理由は、笑えるほど些細。

 シゲルが担当していた案件の不備。

 

 入稿直前の大型ポスターで、主要クライアントの名前を誤植していたことを、

 副総帥が穏やかな口調でやんわりと指摘した。

 

 ただ、それだけ。

 簡単に言えば、プライドだけはエベレスト級のシゲルが、ダメ出しされたことに逆上したのだ。


 そこからの光景は、スローモーションだった。


 あまりにも美しく、完璧なフォームで繰り出された平山の拳。

 そして、その拳がまさに触れんとするその瞬間まで一切の表情を変えることなく、ただ静かにそこに佇むリゲル副総帥の姿。

 

 俺は咄嗟に、その間に飛び込もうとした。

 35年ローンと、妻:サキ。

 長女:ハルカ、長男:レン、次男:ソラの顔が走馬灯のように駆け巡り、

 俺の貧弱な身体を突き動かした。

 

 間に合わなかった。



 不幸中の幸いにして、副総帥は無傷。

 

 リゲル副総帥の隣に、影のように控えていた秘書らしき女性。

 篠崎レイナという、氷のように冷たい雰囲気をもった美貌を持つ女性が割り込み、平山の拳をいなしたからである。

 

 ――だが、問題はそこではない。

 

 子会社の社員が、親会社の副総帥に拳を向けるということは。

 その意味するところは、親会社幹部への暴行未遂だけではない。

 

 日本経済を表裏共に動かす財閥への、反逆行為に等しい行為だった。


 その行動だけで、俺たち広告代理店【ブリニニア】の未来は完全に詰んだ、と言っていいだろう。


 その後は、地獄の縮図だった。

 リゲル副総帥が何事も無かったかのように去ったあと――。

 【ブリニニア】の役員たちは、責任のなすりつけ合いを始めた。

 平山シゲルは「俺は悪くない」とでも言いたげな顔でふてくされている。

  

「あれは木村部長の直属の部下だ」

「彼の管理能力に問題があった」

「我々は関知していない」


 殴った本人は謝罪の意志すらなく、

 上司たちは保身のために目を逸らす。


 人として当たり前の「誠意」が、この場には存在しない。


 

 誰もが保身に走り、平山の暴挙の責任は全て俺一人に押し付けられた。

 

 ……謹慎? 懲戒解雇?

 

  そんな生易しいもので、済むはずがない。

  この業界では、もう二度と生きていけない。

  いや――社会的どころか、物理的に殺されてもおかしくない。


 相川財閥には、それだけの力がある。


 だから、俺は選んだ。

 役員たちが震え上がって誰も行こうとしない、副総帥室への単身での謝罪を。

 

 ――どうせ死ぬなら、せめて誠意は見せよう。

 崖っぷちの人間だからこそできる、万に一つの可能性に賭けた、起死回生の土下座を。

 

 俺はまだ責任のなすりつけを行っている【ブリニニア】の会議室を後にして、

 相川財閥の本社ビルに直行し、必死の思いで謁見許可を得て。

 

 そして、今に至る。



「顔を、上げてください」


 凛――と。

 鈴の音のような涼やかで、それでいて有無を言わさぬ圧を秘めた声が頭上から降ってきた。

 

 俺は、恐る恐る顔を上げる。

 そこにいたのは、神だった。

 

 透き通るような白い肌。

 やや色素の薄い、さらりとした髪。


 女性的とも男性的ともつかない、性別という概念を超越した完璧な造形美。

 齢20歳そこそこと聞くがその蒼い瞳は、まるで世界の始まりから終わりまで全てを見通しているかのような、底知れない深淵を湛えている。

 

 これが、相川リゲル副総帥。

 視察中は遠くから見ていたためそこまでの衝撃は無かったが、一度意識してしまうとその破壊力はえげつない。


 彼は、怒っている様子も、呆れている様子もなかった。

 ただまるで面白い現象を観察する科学者のように、

 純粋な好奇心に満ちた目で、俺を見下ろしている。

 

 ――その目の奥が、キラリと光った気がした。


「木村アキラ――【ブリニニア】戦略部部長、ですね」

「は、はい! その通りでございます!」


 裏返った声が出た。

 情けない。

 

 だが、仕方ないだろう。

 蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだ。


「あなたは、なぜここに?」

「はい……? それは、その、監督不行き届きのお詫びと、謝罪に……」

「ええ、それは分かっていますよ。

 そうではなくなぜ、あなた一人がここに謝罪に来たのですか?

 責任のなすりつけあいの結果、あなたに押しつけた。

 ――その辺りでしょうか」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。


 見ている。

 いや、見抜かれている。

 

 この若者は俺たち凡人の、醜い保身や浅はかな計算など全てお見通しなのだ。

 ここで下手に嘘をつけば、すぐに死ぬ。


 俺は覚悟を決めた。


「……私が平山の上司だからです。

 部下の過ちは私自身の過ちです。

 他の誰のものでも、ありません」


 ――半分は本心。

 そして半分は、そう言うしかないという計算だった。


 だが、リゲル副総帥はその言葉に、初めてふっと本当に微かに口元を緩めたように見えた。


「なるほど。あなたは部下を庇う、と」

「庇うなど、そのような大それたことでは……!

 ただ、責任を取るのが私のような中間管理職の、唯一の仕事でございますので……!」

「……面白い」


 ――え?

 今、面白いと言ったか?

 俺が呆然としていると、彼は隣に立つ氷の秘書――篠崎レイナに静かに告げた。

 

「【ブリニニア】の役員のリストアップを」

「かしこまりました」

 篠崎レイナは、完璧な所作で一礼すると音もなく部屋を出ていく。

 残されたのは神のような青年と、床に膝をついたままのしがないサラリーマンの俺。


 ……絶望的なツーショットだ。


「さて、木村部長」


 リゲル副総帥は、革張りのソファに深く腰掛けたまま俺に言った。


「木村さん。あなたはあの会社を、今の仕事を、愛していますか?」


 唐突な質問だった。

 ――愛しているか?

 

 まさか。

 

 ただの生活の糧だ。

 愛だの情熱だの、そんな青臭いものは、

 とうの昔に会社の理不尽な人間関係と、終わらないサービス残業の中に置き忘れてきた。

 

 俺が言葉に詰まっていると、リゲルは静かに続けた。


「うちに来ませんか?」


 ……はい?


「え……っと、今、何と……?」

「『うちに来ませんか』と言っているんです。

 相川財閥に」


 ――俺が、相川財閥に?

 意味が分からない。

 

 悪質なドッキリか?

 それとも、これは社会的な死刑宣告の新しい形なのだろうか。


「な、なぜ、私のような者を……?」

「あなたには、『責任』を取る覚悟がある。

 『誠意』を示す行動力がある。

 ――そして、『常識』という名の優れたバランス感覚がある。

 今の私の組織には、それを持つ人間が一人、どうしても必要なのです」


 リゲル副総帥の蒼い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。

 その瞳はふざけているようには、到底見えなかった。

 

 彼は本気で言っている。

 この青年は俺という、普通のどこにでもいるサラリーマンを本気で欲している、と。


「詳しい話は、サインしてからでどうでしょう。

 任せたいポストが少々、財閥内でも特殊な位置にありまして」


 副総帥が差し出してきたのは、2枚の書類。

 書かれていたのは「機密保持契約書」「戦略的人材雇用契約書」。


 契約書には、月給とは到底呼べない額――ゼロの列が並んでいた。


 追い打ちのように、署名と同時に支払われる契約金。

 それだけで俺の年収をあっさりと越えていた。


 ――この時、俺は知る由もなかったのだ。


 この契約が俺を、

 世界の裏側へと引きずり込む、片道切符だったなんて。

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