17.浅霧の決断
頭と心が腐りかけてきた。それこそ、身体が植物人間になるように、心までが植物人間になりそうだった。生きているのか、死んでいるのかわかない。供養してほしいという幽霊の気持ちもわからなくはない。
世界や人に執着し続けても、誰かに認識されることもなく、ただ永遠と過ごし続けるのも、そういう意味でもまた、恨みを募らせそうだった。
扉をバタッと閉める。
「やったぞ! ドッペルゲンガーの魂を捕まえた! ここまで気持ちいいものはない! 生きてて最高だああああああ!」
(ああああああああ! うるせえええええ! 殺す!)
「頑張れ頑張れ」
エンジンを掛け、また車が出発した。次に帰るとしたら、高郷の家だろうか。結局、浅霧や粗里が、帆野を見つけてくれることはなく、ここまで来てしまった。
家に連れて行かれ、勝負には負ける。帆野は、ラブドールに閉じ込められる。ずっと誰かに犯される日々。それだけで先の未来が真っ暗だった。
(もういっそ、殺してくれ……)
車が停止して、また頭を掴まれた。スマホに送られてきた写真に映る、高郷の家。石の塀に囲まれ、焦げ茶色の横に広がった平屋。
古風な建物だが、屋根は瓦でできてはいない。平らになっているが、材質はここからでは確認できない。
塀の入り口は黒い鉄の扉でできており、両開きの左の扉を奥に押して、建物の中に入ろうとするが、その場で足が止まった。
(な、んだ……)
高郷の心の声が聞こえる。何があったというのだろうか。ドアノブを握ったところで止まっている。扉の前で立ち止まっている。
(よし、いまだ!)
粗里の心の声。高郷は、後ろを振り返り、頭を掴まれた帆野も、高郷と同じ方向を見る。浅霧と高郷が、大きな網を持って襲いかかろうとしていた。
高郷は思わず、後ろに下がろうとするが、後ろには動けない。
(お前ら、何をした!)
まるで、誰かに縛り付けられたかのように、その場から動かない。
「ぐあああああ!」
高郷は、声を上げる。頭を持ったまま暴れるので、視界が激しく動く。やがて高郷が手を離し、視界が真っ暗になった。誰かが持ち上げたらしく、その正面を向ける。浅霧の顔が映った。
(これ、俊君かな……)
体を持ってくれている。心配しているような顔が映っていた。ここまで間近に見られたことがなかったため、少しばかりドキドキした。
やがて視界がそのまま下がり、至近距離でジーパンを履いた浅霧の太ももが映る。
(本当は、私が奪われたかもしれなかったんだ……私が、ここで……)
浅霧の心の声が、伝わってくる。
(後で、ちゃんと言わないとな……)
自分のせいで、と浅霧なら思っているだろう。
「私達の魂は取らないんですか?」
この視界では、その違和感に意識を奪われて聞き取りづらいが、無理矢理にでも聞くしかない。
「なんだと?」
「結界って、本当に効くんですね」
「俺の家にそんなことしたのか? 許さねぇぞ!」
「まぁ、それでも無理矢理入るものかと思いました」
鼻息を荒くしている高郷。
「どうしますか? 今回は絶対に離しません」
「へ、へへへ……こんなことどってことねぇぞ……」
「もしかして、誰かが自分が奪った状態だと、二人目を奪えないんじゃありませんか?」
「うるせぇ、今に見てろ……?」
「図星ですか。賭けに勝ちましたね。あなたの負けです」
「うるせぇって言ってんだろうがああああああ!」
扉を開く音が聞こえる。
「終わりました」
鮫島の声だ。
「おい、早くしろ。死んでしまう……! どうにかできるんだろ?」
呉の声もする。恐らく、ドッペルゲンガーのことでこちらに来たのだろう。
「お前は……!」
状況の把握が上手く出来ない。高郷がそういったことだけは理解する。
(あああああ……前がよく見えない……!)
「浅霧さん?」
鮫島が言った。
「そのぬいぐるみ、私にくださいませんか?」
「え?」
手を持ち上げて、覗き込む。自撮りのように、どんどん浅霧から離れていき、鮫島に体を掴まれた。正面が、前に向けられている。
「私が聞き取れますので、しゃべってください」
(え? あ、これでいいんですか?)
「はい」
どうやら、会話が成立しているようだ。先ほども聞こえていたのだろうか。高郷は当然、反応もしていない。
網にかけられ、縄に縛られた顔のない人間は、そこに立っている。浅霧に持たれた後、粗里が縛り上げたのだろうか。その奥に、呉がいた。もう全身が透けている。
「なんとか言え!」
呉がそう叫んで、高郷の前に立つと、顔がないことに腰を抜かして、悲鳴を上げた。
「な、なんだこいつは! 化け物か?」
今度は嘲笑うわけではなく、高らかに笑い声を上げた。
「なにがおかしいんですか?」
と、浅霧は言う。
「呉さんよ……助かりたくはないか?」
「助けてくれるのか?」
「良いぞ。その代わり、ほどけ。それが条件だ」
「誰が受けますか? そんなこと」
浅霧の言うことは尤もだ。いくら、誰かの魂を持っている時に盗めないとは言え、どこかに収めてしまえば、また誰かの魂を奪える。
「お前! まだ俺のことを恨んでるのか!」
呉は、浅霧を叱責する。
「あなたのことは大嫌いです! でも、そんな個人的な恨みだけじゃないです。今回は……」
「何度言ったらわかる! 俺は、日本を支える人間だぞ!」
「あなたのような人は何百人といます! 自惚れないでください!」
「相変わらず、大人に向かってなんだその口の利き方は!」
手を挙げて殴ろうとするが、粗里がそれを止める。
「流石にそれは許しませんよ?」
「喧嘩してるところ悪いんだが」
と、高郷は言う。
「いいのか? そのうち死ぬぞ? 俺は、呉議員を救える」
呉は、高郷の両方を掴んだ。
「本当か?」
「呉さんの魂は透けてる。ドッペルゲンガーに成り変わられようとしてるんだと思うが、どうする? 呉さんに、俺の持ってるドッペルゲンガーの魂を戻せば、影は戻り、あんたの魂は一つになる」
(そんなことに乗るな!)
「てめぇは黙ってろ!」
確実にこちらを向いて、高郷は言った。
「どうしたのですか?」
鮫島は、優しく語りかけてくれる。
(そんなことを言って、騙そうとしてるだけだ。そんな確証もないこと……)
魂の輝きは、今の状態でもわからない。この周囲の人間の心の声や、ここにいる人間の、特に呉の心の声は顕著に聞こえる中、なんとかこの会話に意識を絞って聞いているが――恐らく、それは高郷にしかわからないのだろう。
「嘘なんかつくか。ちゃんと返してやるさ」
「返したら、あなたは能力を使えてしまう」
鮫島はそういった。
「じゃあ、こうしよう。俺が魂を奪うときは、基本的に相手の体をどこでも、直に手を触れた時に取れる。変な動きをした時に、そこの霊能者にでも教えてもらえ。ちょっとでも怪しい動きをしたら、除霊でもなんでもしろ」
「だからと言って、縄を外すことと天秤にはかけられません」
「じゃあ変更だ。せめて、この結界を解いてくれないか?」
「そう言って、体に戻りたいだけではありませんか?」
「体に戻ったら、この能力は使えない。ただの生身の人間だ。四対一で、勝てるわけもないだろ? な?」
心の中で、呟かないように必死にこらえる。
「どうしますか?」
「……応じるのは構いませんが、早海さんと帆野君も、戻してくれませんか?」
と、浅霧は答える。
「なにを言ってる! そんな欲張りが通用すると思ってるのか? 呉と帆野どっちかだ!」
「そんな……早海さんは?」
「諦めろ。当たり前だろ。俺をこんな風にしたんだからな……」
(高郷……琳を戻してくれ。俺は良い)
ケタケタと笑う。
「いい度胸してるじゃないか。良いぞ。わかった。呉と早海のどっちかだ!」
「きゅ、急になにを言ってるんですか?」
浅霧は動揺している。
「うるせぇ! 早海ちゃんと呉のどっちかだ! 良いな? じゃないと、このまま取引はおじゃんだ。全員破滅!」
「そんなことはどうでもいい! 俺を助けてくれ!」
呉は、見るからに動揺している。それもそうだ。こんな条件で、呉を見捨てないわけがない。
「金に困ってるんだろ? 億という単位で上げても良いぞ?」
「億か、そいつはいいや」
「だろ? すぐに用意する」
「断る! というか、断固拒否する」
「なに?」
「俺にもプライドがあるんだよ。そんな負け犬の悪あがきみたいに頼まれちゃあ、お前の言うことは聞けないな」
「てめええええええ!」
「さぁ、浅霧。お前が決めろ。簡単だろ? こいつに恨みがあるんだろ? な?」
浅霧は、答えない。帆野の中に、一抹の不安がよぎる。恨みを抱えていたとしても、呉と早海の命が同じであるという認識を持っているのだろうか、と。
(いや、違う……そうじゃない……)
(私は……)
浅霧の心の声が流れ込んでくる。
(早海さんとこいつなんて、そんなの比べなくても決まってる。でも、ここでスパッと選んで、後々後悔しないかな? 恨みがあるとは言え、この人を殺すことになる。ちゃんと覚悟を決めて、決めないと……)
(そうだ……浅霧はそういうやつだ)
(お父さんのことがあったとしても……)
「浅霧。お前の親父に会ったぞ?」
と、高郷は言う。
「えっ?」
(なにを言う!)
「浅霧越郎、お前の親父じゃないのか?」
浅霧は、なにも答えない。
「俺に頼んできたんだよ。今の今までずっと浮遊してた。相当悔しかったんだろうな。たまたま話を聞いたら、どうやら呉さんの秘書をやってたそうじゃないか。それからだ、これは金になりそうと思って、こいつを脅したのは。
詳しく教えてくれたさ。復讐させてやろうかとも言ったが、あいつは″誰かこの事件を暴いてくれれば、私は本望です″って。
相当の正義感の持ち主だ。それまで消えるつもりはないだろうな。そこの霊能者さんが、供養をしたところで受け入れないだろう。
あぁ、最後にこんな事も言ってたな。娘に伝えて欲しい、と。父親らしいこと出来なかったこと、自分の正義感を優先したこと、そんなことをずっと悔いていたな。後、母親についてのことも言ってたが……仲良くしてくれとかなんとか」
(きっと……お母さんのことが嫌いなの知ってて、それで、仲良くしてって意味で……)
浅霧の心に響いた声が聞こえる。追い打ちをかけるようにして、感情的に身を任せようと伝えたのだろうか。相手の考え方までわからない。
「私は……」
「おいやめろ!」
呉は、膝から崩れ落ち、土下座をした。
「俺が悪かった! 頼む!」
先程よりも影が薄くなっている。そろそろ潮時なのだろうか。
「決まってるでしょ! 早海さんを選ぶ!」
「てめええええええ!」
「よし決まった! 取引成立だ!」
「やめろおおお!」
呉は、この世界から消滅した。断末魔でさえ、余韻を残さず、プツリと。まるで、ヘッドホンのプラグを抜かれたかのように。残ったドッペルゲンガーの魂はどうなったのだろうか。それを、心の中で言った。
「まだ感じますね。けど、これは世に放つことは出来ないでしょうね。呉さんが元々持ってる悪道を、理性の効かないドッペルゲンガーが引き継いでる感じがしてます。そんなものをあなたは抱いてて、平気なんですか? 高郷さん」
「この体で俺の中にいるときは、一切の行動が効かない。制御も簡単だ。早く案内しろ」
「その前に、帆野さんを」
「きっちり体を確認してからだ。そうだろ?」
まずい、と思ってしまった。この状態では、早海も帰ってこない。この先どうすれば良いかと、焦りが生まれる中、帆野を持った鮫島が、高郷の家に入っていく。




