11.院内脱出
自身が寝ていた病室から廊下に顔を出す。病院と言っても主に内科の病院だろうから、そこまで大きな病院ではないだろう。
右側を覗くと待合室になっている。ここから入口が見えるが、その行動を遮るが如くゾンビと思われる女が徘徊していた。
薄暗い環境の中で足元に目を凝らしてみると、片足だけ靴がない。彼女に間違いはないだろう。荒い息がこちらの耳まで届いているが、女はこちらの存在に気づいていないようだ。その足で左側へとゆっくり歩いていき、死角になって存在が見えなくなっている。
扉をそっと閉め、この部屋の窓を探す。窓は扉と真反対の位置にあり、物音を立てないようにその場所へと近づいていった。
わずかな月明かりが差し込む中、適度に明るいその輝きのおかげで難なく窓の錠を解除しようと試みる。
が、何故か硬くなっていて動けない。目を疑った。
(馬鹿な。あり得ない!)
さらに力を込めたが、やはり動かない。確認のため、まじまじとその錠を見る。さび付いてるわけでもない。
しかし、なんだか妙な無色透明の凹凸が錠の隙間を埋めるようにびっしりとあった。指で触ってみても、鉄の冷たさや独特のすべすべがない、わずかな弾力があるなにかで固められていた。
(なんだこれ)
恐らく接着剤だろう。ここまでするだろうか。ここから逃がさないためであろうが、今はそんなことより貴重品や靴を取り返してこの場所から出ることを考えることを優先しよう。
もうこの病院の入口から出る他ない。加えて、窓を割ったら間違いなく気づかれる。そんなことをすることも出来ない。扉の前に立った。
もしこの扉を開けた正面にゾンビが立っていたとすれば。そんな不安が頭を過るが、だからと言って、じっとしてこの場を動かないという選択肢が果たして本当に助かる見込みはあるのだろうか。いくらゾンビと言えど、安心はできない。
こうしてはいられない。出来るだけ音を立てずに、勇気を振り絞って扉を開ける。
そこにはゾンビもいない。この部屋を通り過ぎた可能性を考えるなら、待合室の方に行く選択が正しいが、だからと言ってそんな確証はない。
(安全策を取ろう)
一旦扉を閉め、この部屋に武器になるものはないかと見渡すが、カーテンやベッドが見られるだけでそんな便利なものはなにもない。
当然といえば当然だろうか。ここは病室である。仕方なく下げた点滴をベッドの上に捨て、点滴スタンドを両手で槍のように構えて進むことを選ぶ。
部屋から出て、左に曲がったすぐの診察室へと入る。
中は一つの電球が内部を明るく照らしていた。思わず、その光景にわずかな声を漏らしてしまった。そこには、血を流して倒れている平助という人間の姿。
目は見開かれ、首から肩にかけて赤黒く染まっている。肉片が血に混じり、思わず吐きそうになったが、無理に飲み込んだ。
凄惨な傷を作っているのだから、もう既に絶命していることだろう。目の前の風景を映していながらも、それを認識することはない。
意識を切り替える。
(俺の、俺の)
貴重品を探していると、診察室のパソコンが置いてあるテーブルの上に空のペッドボトルやスマホ、買ったばかりの縄が見える。
捨てられていなかった、と安心したが、スマホがもう一つ見える。パソコンの画面は点灯していて、誰かの患者の診断書が映っていた。
どちらだろうか。とりあえず鍵や財布とまとまっているスマホを手にし、電源を入れた。指紋認証のロックを解除し、自身のものかどうかを確かめる。解除に成功したので、財布や鍵をポケットにしまう。
誰かのスマホ。平助か医者の女のものだろうか。
なにか証拠になるかもしれないので、それも一緒にポケットにしまった。空のペットボトルはなににも使えないだろう。
縄は帆野を殺すための凶器のように思える。今やそんなことよりも、ゾンビを如何にして退くか、ということに全力を注がなければ。
これでゾンビの首を締めたにしろ、苦しまずにそのまま襲ってくるやもしれない上、殴殺出来る武器以上に接近しなければならないため、これはパスだ。
(とりあえず、隠れてやり過ごすか?)
ふと左手の痣が目に飛び込む。帆野を殺そうとしていた存在は、この平助という男だったのだろう。
何故帆野が生きてここにいて、そしてなんのトラブルがあって彼が死ぬことになったのかは不明のまま。
そんな時、ゾンビになって襲ってくるのではないのか、という思考が頭を過る。いてもたってもいられず、テーブルの足元にあった帆野の靴を履いてこの場所からそそくさと逃げ、職員が通るであろうカーテンで仕切られた奥へと入った。
ゾンビの姿はない。やはり、まだ待合室にいるのだろうか。左か右に行けるが、どちらを選択するべきか。とりあえず待合室の方へ。腰を低くして背後に気を配って前へと進んでいく。
息の荒さは次第に大きくなっていく。この声から察するに、ゾンビはやはり待合室にいたということだろう。
カウンターを壁にして死角になるところまで行こうとするが、受付に入る入口からすでにゾンビの姿が見える。
丁度、帆野がいた病室へと向かっているところだった。決断が遅ければ襲われていたかもしれない。
完全に死角に入ってからカウンターの影に隠れる。当然しゃがんでいては、ギリギリ存在が見えない。なにか音が合図になれば良いのだが、覗くわけにもいかない。
(どうすればいい)
またこうして考えていては、見つかってしまうかもしれない。賭けに出るしかないと判断し、素早くカウンターから待合室へと移動する。点滴スタンドも、慎重かつ大胆に運んだ。
しゃがんだ体勢を維持しながら、女の居場所を確認する。通路を覗いたが、そこには既に存在が見えなくなっていた。扉を開けた音は聞こえない。もしかしたら、診察室へと入ったのだろうか。
不幸中の幸いか、これだと目を盗んでこの場所から出ることは可能だ。細心の注意を払って玄関へと向かう。手前の自動扉は動かない。手動で重たい扉を動かす。
中に入ってアルコールや額で図る体温計の傍を通り抜け、外を出ることを試みる。しかし、扉が開くことは叶わない。
「は?」
つい声が出てしまった。ヒソヒソと喋る声くらいの声量であるため問題ないとは思うが、それよりもこの扉が閉められているというのはどういうことだろうか。こんな状況では、ゾンビと共存する選択をする他ない。
(仕方ないか)
この扉の鍵を探そう。
引き返そうと振り返った時、嫌な予感が頭をよぎる。
(まさか。あの女が)
そうだとすると、必然的に戦うことになるだろう。
結局、点滴スタンドを使うほかない。出来るだけ相まみえたくなかったが、これではそうする他ない。近くにゾンビがいる気配はなかったが、丁度カウンターの前に例の女がいた。
この距離では気づかれると思ったが、視力が落ちているのか、はたまた薄暗さが功を奏してか、こちらには気づいていない様子だ。
耳がどれくらい聞こえるかはわからないが、音を立てるわけにもいかないだろう。女が中に戻るまで待とう。
狩りをする肉食動物がタイミングを見計らうため、草葉の陰からじっと身を潜めるがごとく、その一連の行動を牽制する。
腕の関節も思うように動かせないのかはわからないが、異様な歩き方をしている。力が入っていないという表現に近いかもしれない。肩を先行させて歩き、腕はただ繋がってるようにぶらぶらと。
そのまま、向こうの部屋へと帰っていく――そう期待したが、そのカウンターの高さを、腕を使って身を乗り出してきた。
今にも、心臓が口から飛び出してしまいそうだ。強張った時に漏れる声は未だかすれていて、不気味な吐息を空気中に吐き出している。
何度か躓き、上手く上がれていない様子だ。しかし、体を腹まで乗せることが出来ると、そのまますべるようにして待合室へと入る。転倒する際に椅子やなにやらに体をぶつけているも、悶えることすらしない。
その音にすら、今や過敏に体が反応してしまう。動悸もすさまじい。こうなっては戦うことも避けられないだろう。
ある意味では、千載一遇のチャンスともいえる。ここで女を倒すことが出来れば、ポケットの中などを探すことが出来る。
転倒した後、ゆっくりではあるものの立ち上がり、息を整えているかのようずっと立ち止まっている。やがて歩き出し、正面の通路に差し掛かる場所まで出てき、そのまま左へと移動する。
(今だ、今しかない!)
一気に駆け出して、背後に襲い掛かろうとする。しかし、途中勢い余って玄関の自動ドアに点滴スタンドの足が衝突してしまい、女が反応してこちらを振り向く。手を伸ばして蛇のような声を出し、口を大きく開いて襲い掛かる。
(止まるな! ビビるな!)
スタンドを大きく振りかざし、頭に直撃。勢い任せて背後に倒れ込む。まだ起き上がるかもしれない不安で何度も何度も殴り、完全に気絶したことを確認する。
スタンドはまだ手に取ったまま。帆野の荒い息が部屋を包み込む。休んでる暇はない。早速、女のポケットを漁る。黒いスラックスに白のシャツ。血で汚れたり皮膚が変色していたりと、普通ではない状態だ。
白衣の内ポケット共にすべてを調べ、帆野から見て左側のポケットに鍵が入っていた。束ねられているが、落ち着いて一つ一つ確認していけば必ずどれかに当たるだろう。
(そんな時間あるか? まさかここにないとか?)
そんな考えが頭に浮かんだが、今は一刻も早くこの場から外に出ること。考えることよりも行動することに意識を切り替える。
すぐさま玄関に向かおうとしたその時、例の特徴的な吐息が聞こえる。
(そんな馬鹿な! もう復活したのか!)
そう思って振り向くと、女は倒れたまま。違う。通路側に視線を向けると、そこには平助がゾンビの姿になって彷徨っていた。足を早めて腕を上げ、こちらに向かっている様子だ。
慌てて玄関の方に逃げ出し、入口の鍵穴を探す。
(どこだ、どこだどこだ! クソっ!)
「あった!」
鍵穴は足元。形状からして一つしかない。長細い金色の鍵を使って解錠させる。扉を勢いよく開けた。
体が外に出そうだったその瞬間、肩をガッチリと掴まれた。危機を察知した体は大きく、そして飛び跳ねた心臓はより力を与え、顔面にひじを一撃を与えた。
「ああああっ!」
急いでここから脱出しようとした時、足首をゾンビにぐっと捕まれて転倒してしまう。叫んで無我夢中に蹴り飛ばす。足で倒れた平助の顔を何度も蹴った。
鼻を潰そう、そこまでの力を振り絞って。痛みを感じてないからなのか、手は未だガッチリ掴まれたまま。むしろ蔦を受かって這い上がるかのように段々と迫ってくる。
両足で動かして、振りほどくのと同時に顔を蹴って抵抗する。ようやく出から開放されたので、その場から急いで逃げだした。




