あの日言おうとしたこと
翌日、いつもより暗い気持ちで学校に向かった。電車に揺られながら、通学路を歩きながら、皆にヒーローだと持て囃されながら、僕は……彼女にする謝罪の言葉を探していた。
「おはよう、ヒデオ」
「うわっ」
なんて言えばいいのか。
そんな言葉を探している内に、背後から新垣さんは迫ってきていた。背中を思い切り叩かれたのだが、痛みはなかった。
ただ、顔を直視出来なかった。
「昨日はありがとう。いつものことだけどさ」
「うん」
「昨日の怪獣は強かったの? ニュースの速報では、結構時間かかってたみたいだけど」
「いや、そんなことはなかったと思うよ」
「そう? じゃあ駄目だよー。もっと頑張らないとね」
「……そうだね」
茶化すように話す彼女に、どうにも歯切れ悪く返事をしてしまっていた。
でも新垣さんは、そのことに気を留めている様子はなかった。
「今日の放課後も、大丈夫?」
思わず目を見開いてしまった。
言わなければ……。
そう思った。
そう思ったのに……切り出すことが出来なかった。
「ヒデオ、どうかした?」
「え?」
慌てて彼女を見れば、彼女は心配そうに僕の顔を覗いていた。
少しだけ、喉につっかえる何かがあった。それが何かは最早明白だった。なのに、僕はそれを飲み込んで……言い訳の言葉を探していた。
「ちょっと疲れているだけだよ」
「そう? ……やっぱり、昨日の戦闘で?」
「そうだね。そうかもしれない」
曖昧に返事をして、このまま彼女と話しているのも気が引けて、僕は彼女から目を逸らしていた。
「ちょっと保健室行ってから教室に行くよ」
「大丈夫?」
「大丈夫。気にしないでくれ」
玄関を過ぎ、彼女と別れて保健室に向かった。
保健室の教師は、僕をあっさりとベッドで休むよう勧めてくれた。昨日の戦闘の件もあったから、さすがに寛容的だったらしい。
情けないな。
ベッドに仰向けに寝転がり、女々しい思考を続ける自分に向けて自罰的に言った。たかだか彼女の望むことを無下にすることくらい、これまで味わってきた仕打ちに比べたら随分とマシなはずなのに。
なのに、今まで一番割り切りが出来ていない。
それが何より、好いた彼女に対することだからそうなんだと理解すると、一層馬鹿な奴だと思ってしまった。
彼女の悲しむ顔が見たくない。
彼女の涙を見たくない。
彼女のそんな姿見たこともないくせに、彼女がそんな姿を見せるとも限らないのに。
一歩を踏み出せない。一歩を踏み出すことを恐れている。
本当に、情けない。
ため息を吐いて、目を瞑った。
……寝不足なのは、確かなことだった。
昨日は政府の根城に寄った後、涼子さんから軽くお灸を据えられ、家に帰ったのは十二時を回っていた。それから色々して眠ったから。
気付けば夢の世界に僕はいた。
どうして夢の世界とわかったのかと言えば、そこに父がいたからだ。僕の夢に母が出たことは一度もなかった。
母は、父との写真を残されることを相当嫌がったらしい。
子を成したことだけでも、当時を知る政府の人間からすればかなり驚いたそうだ。
そうした結果、母は僕を産んですぐに死に、残された写真などはまるでなかったから。だから、母の顔を僕は知らないから。
母が僕の夢に出ることはなかったのだ。
『俺とあの人みたいになるなよ』
父は母のことを、あの人と呼んでいた。
父は一度は母を愛したからこそ、母と結ばれた。なのに、父は最終的に母をあの人と呼んだ。
まるで他人であるかのように、そう呼んだ。
父が母に抱いた感情は……愛ではなかったのだろうか?
そうだとするなら、僕が今新垣さんに抱いたこの感情も……。
昼休みのチャイムで目を覚ました。喧騒とする廊下に出ると、呑気な様相で生徒達が廊下を走り去っていった。
階段を昇り、教室に向かった。
そこに、新垣さんはいた。
「ちょっといい?」
「ん?」
弁当をクラスメイトと抓む新垣さんを呼ぶと、彼女は間抜けな顔で僕を眺めていた。
「ヒデオ、どうかした?」
「……今、時間ある?」
一緒に輪になって弁当を食していた女子の顔が強張った。視線が新垣さんに向けられて……まるで断るんだ、と言う目で新垣さんを見ていた。
「あるよ」
新垣さんは言った。
クラスメイトの無言の尊重に気付いていないわけではなかったのだろう。でも、そう言ったのだ。
「お弁当、食べ終わってからでもいい?」
「駄目だ」
滾ってきたこの気持ち。
一度でも冷やすと……もう一度それを言い出すことが出来ない気がしていた。
僕は新垣さんの手を取り、無理やり教室から連れ去った。
「うわわっ」
教室から、新垣さんの名前を呼ぶ声が木霊した。まるで戦地に一緒に赴き、目の前で彼女だけ死ぬ姿を見たような、そんな悲痛な叫び声だった。
内心で皆が僕のことをどう思っていたかは知っていた。知っていたけど、いざ直面すると胸が痛かった。
口ではヒーローだなんだと言って、結局皆は僕のことを、命を奪う悪魔だとでも思っているのだろう。良い顔を見せて、靡いているような顔を見せて、僕に食われないように、内心ビクビクしながら最悪を回避するべく、僕に微笑みかけているんだ。
そのことが憎たらしかった。
だけど、今はそんなこと、どうでも良かった。
いつもの渡り廊下に着くと、彼女の手を離した。
見れば、新垣さんの手首が……白い柔肌が、少し赤くなっていた。
それをしたのが僕だと理解すると、自罰的な言葉が脳裏を過った。
僕は首を振って、そんな話をしに来たわけじゃないことを思い出した。
彼女の落ち込む顔を。泣き顔を。
見たくなかった。
それは何故かと言えば、僕が今彼女に抱くこの気持ちを彼女への好意だと思ったからだ。
だけど、本当にこれは好意なのだろうか。
父は言った。
『俺とあの人みたいになるなよ』
そう言った。母をまるで他人であるかのように言い、自分の行いを悔いるようにそう言った。
父は間違えた。
一過性の気持ちに、過ちを犯した。
その結果、母は死んだ。
僕は知らない。
父が知らなかったように、愛、というものを知らない。
彼女に今抱いているこの気持ちは、本当に彼女への好意なのだろうか。肯定出来なかった。
肯定出来ない自分がいるとわかったら……。
「どうかした?」
微笑む新垣さんに、心臓が大きく高鳴った。
もう、わけがわからなかった。今彼女に抱いている気持ちの正体も。彼女に見惚れている自分も。
もう、何もわからなかった。
「監視役に怒られたんだ」
僕は俯いて言った。
「何を?」
「……もう、トランペットの練習はするなって」
新垣さんは黙っていた。
「……き、昨日の怪獣との戦闘。すぐに集中が切れたんだ。そのことで、監視役が最近僕が、何か新しいことを始めて、それで疲労を貯めて、だから万全な状態で戦っていないことに気付いたんだ。だから……だからっ、止めるように言われたんだ。
トランペットの練習は、万全な状態で戦えないから止めるように言われたんだ」
……こんな言い方、するつもりなかった。
選んだのは僕なのに、全て政府が悪いようなこんな言い方、するつもりはなかったんだ。
本当に、自分で自分が嫌になる。
弱い自分が嫌になる。ヒーローなんかではない自分が……嫌になる。
「そっか。それは残念」
新垣さんの声色は、整然としていた。
「それは止めた方がいいよね。うん。あたしも……死にたくないし、君にも死んでほしくない」
「……ごめん」
「なんで謝るんだよう。君が悪いわけじゃない。無理強いしたのはあたしじゃないか」
「……ごめん」
新垣さんの顔は見れなかった。
乾いた笑い声が、新垣さんの方から聞こえた。
「そんなに悪気があったんだ。だとしたら、少しは一緒に練習する時間、楽しいと思っていてくれたのかな」
何も言えなかった。肯定も否定も、何も。
「まあまあ、ヒデオ。しょうがないよ。体は大事にしなきゃね、うん」
「……ごめん」
「いいよ。……ただ、そうだな。そこまで悪いことしたって思っているってことだよね、ヒデオ」
「……うん」
「じゃあさ。……本当はこれを聞くために君をトランペットの練習に誘ったところがあるんだけど、教えてよ」
「……え?」
この状況で僕に何かを聞こうとする新垣さんに、慌てて僕は顔を上げた。
「あの日のこと、覚えている?」
「あの日の……こと?」
「保健室で、窓の外を見ていた時のこと」
冷や汗を掻いて、僕は再び俯いた。
わかってしまった。その時のことがいつのことか。
『冗談だよ、全部。少し……からかってみたくなったんだ』
それはあの日のこと。
そう言って全てを誤魔化したあの日のこと。
彼女に青い顔をさせてしまい……後悔しながら全てを誤魔化した、あの日のこと。
「その顔は、心当たりありって顔だね」
僕は何も言わなかった。
「ねえヒデオ、教えて?」
新垣さんの声は……あの日と違い、とても落ち着いていた。
「あの日、君はあたしに何を言おうとしたの?」