36 存在理由
昨日は秋斗が、ボールを持ってきて近くの公園に弘幸君を引っ張って行って、サッカーをした。見た目通り体力の無い弘幸君は始めて五分でふらふらになっちゃった。
外に行こうとしたら外出許可をとらなくてはいけないと言われて驚いた。
服のことといい、子どもの自由を奪うような施設のやり方に苛立ちを覚えた。
「別に、これが普通だと思ってるので、何とも思いません」という弘幸君にも。
弘幸君は、これをしよう、とかああしよう、とこちらが提案したことに一切文句を言わない。
出された指示に従うことになんの疑問も持たない。
それはきっと、そう教えられてきたから。それがせつない。
今日はジュースとお菓子を持ってきて屋上でおやつタイム。
いつものようにワイワイと学校のことを話した後、少し踏み込んだ質問をした。
「弘幸君のこと、聞いてもいい? いつから施設にいるの?」
本当は知っているけど、本人の口から、自分のことをどこまで把握しているのか、聞きたかった。
「よく覚えていません。物心ついた時にはもう。たぶん・・五歳、くらいだと思いますけど」
「ご両親はどこにいるか、知ってるの?」
「親は、いません」
即答だった。
「いないって? どういうこと?」
言葉に詰まった私に変わって秋斗が聞く。
「わかりません、けど。施設の人に、そう教えられました。
親はいないから帰る場所もない。だから、ずっとここにいていいんだと」
「・・ここでの生活は、辛く、ない? ヒロユキ」
「そう感じたことはありません。
毎日、与えられた課題をこなすだけの単調なものですが、研究の結果を出すことが私の存在理由なので」
淡々と告げる彼の表情には、何の悲しみの色もない。
悲しむという感情があるということも、きっと彼は誰にも教わらなかった。
ここの大人達が、長い年月を掛けて、弘幸君からそういった感情を奪っていったんだと思うと憤りを感じる。
私の隣で黙って聞いている秋斗も同じ気持ちなのか、少しやるせない表情を
浮かべている。
人としての感情はモルモットには邪魔だからいらないということ?
なんて勝手なんだろう。
悲しい、辛いという感情そのものを知らなければ、閉じ込められた暮らしにも何の不満も持たないだろうけど、それはあまりにも非道ではないだろうか。
彼の人としての人権は?
どうしてこんなことが許されているんだろう。
「・・さくらさん?」 遠慮がちな声で名前を呼ばれてハッとする。
目頭が熱くなってきているのを感じて、私は必死で溢れそうになる感情を堪えた。
今、目の前で泣かれても弘幸君はきっと困惑するだけだろう。
泣いちゃだめだ。
「さて。今日はそろそろ帰るよ」
秋斗がうーんっと伸びをしながら陽気に言って、手早く後片付けをする。
「あ、ああ。そう・・ですね」
「今日も色々話せて楽しかった。ヒロユキ、明日は、太陽と月の軌道の話の続き、
聞かせてくれよ。じゃ、またな」
「はい。さようなら」
さくら、立てる?と耳元で囁く声に うん、と小さく返す。
「また、ね」
にっこりと笑顔を作って、なんとかその言葉だけを口にした。
弘幸君は、少し、何か言いたげな表情を見せたけど、すぐにいつものように
また本を読み始めた。
秋斗に手を引かれ、屋上から自転車を置いたマンションの裏に駆け下りるように無言で走った。
建物の影に入ると、抱き寄せられ秋斗の胸に顔を埋める。
「・・ひどい、ひどいよ! あんなのっ」
秋斗のTシャツを握り締める両手に力がこもる。
抑えてた涙はどんどん溢れてくる。秋斗はぎゅうと私を抱きしめた。
「・・・このままにはしとかない。絶対に何とかしよう」
力強く呟かれた言葉に、私は何度も頷いた。




