第五話 「王立ツーダ医学研究所」
ツーダ先生は、頑張ります。医学の進歩のために。期待に、信頼に応じるために。
ツーダ先生にとって、自分が異世界に暮らしているのだという実感は明瞭だ。
自分が異世界にいるという証左。
それは朝の珈琲がないことでヒシヒシと毎朝実感されてしまう。
或いは、冷たくキンキンに冷やしたビールと食肉用に育てられた和牛の不在だろうか。
いや、エールの類を否定するつもりはないし自分の食趣向とこの世界の人々のそれが違うことを嘆いても仕方がない。
ツーダ先生は、この点において国が違えば文化が違い、それは優劣ではなく考え方の違いだということを学んでいる。
だから、出来ることならばその国の良い習慣を郷に入れば郷に従えの精神で学んできた。
人と人との信頼関係は、難しく考えずに一人の人間として、或いは一人の医師として誠実であることに尽きるとツーダ先生は信じているのだ。
だが、前述の嗜好品の問題もさることながら娯楽という点ではやはり慣れ親しんだものが欲しいと思ってしまうのもまた人情だろう。
特にプロレスや諸々の愛した娯楽が乏しいということはツーダ先生の心をどうしても苛む。
しかし、それでもツーダ先生は現状の生活において必要な優先順位を見失うことはない。
それに、とやや衒いが混じらざるを得ないものがあるにしても、今日は素晴らしい一日なのだ。
なんなれば。
「楽しみだなぁ」
今日、異世界においてとはいえ自分の医学研究所がもてるのだ。
臨床研究を兼ねた大規模で専門の医学研究機関だ。
しかも第三セクターや乱立する小規模研究所から一歩どころでなく進んで正規の教育機関として認可された国家機関。
一国一城の主、というやつだ。
なんともありがたいことに、王立ツーダ医学研究所という個人名での設立である。
自分に対する異世界の人々の戸惑うような眼差しには少し隔意を感じてしまうものの、自分が異邦人であるということは言われずとも理解できるのだ。
だから、そんな自分に対してここまで公的に援助してくれるという王国の姿勢には素直に感謝するしかない。
異世界で文化が根本から異なる以上、越えるべき障壁は無数にあるだろう。
誤解を解決するには重大な労力が必要になることも理解している。
だが、期待にはこたえてみせる。
その決意も露にツーダ先生は壁に吊るしてあった白衣を手にとる。
説明会のとき、妙に権威主義的だと思った医師としての白衣。
だが、この王国にあって白衣というものの象徴する『医師』としての姿を示せるとすれば。
それは、きっと、やりがいに満ち溢れていることだろう。
それは、査問の場となるはずだった。
枢密院の子飼いらが、それこそ、歴代の譜代とでも言うべき手勢らが。
一様に設けられたばかりの王立ツーダ医学研究所から、一目散に逃げ出しているという報告。
あまりといえば、あまりの醜態に眉をひそめたお偉方が、『どうなっているのだ』と問い詰めるべく開いた査問の場。
そして、彼らは予想外の光景を目の当たりにする。
「……従いまして、王立ツーダ医学研究所の全職員は我々が選抜し、送り込んだ監視の精鋭集団でした」
げっそりとやつれたある廷臣がぼつりと吐き出す言葉。
召喚された枢密院顧問補佐官は、今にも現世から旅立ちそうなほどやせ細っていた。
誰が知ろうか。
彼が、尤も精力的に政務に取り組む次世代を担うと期待されていた若手官吏のルー家のガンバだと。
「でした、ということは?」
「二月で、半数が精神に異常をきたし、残り半数が退職を希望しています」
問いかけに、まるで自分も壊れそうな声色で応じるガンバ・ルー枢密院顧問補佐官。
時折、定かでない視線を宙に泳がす彼の様子は、半年前の彼を知っている人間には同人とは思えぬ変貌振りだった。
「ガンバ補佐官、悪いが卿の説明は明瞭さを欠く。激務で疲れているのは分かるが、報告には正確を期してもらいたい」
だが、心を鬼にして枢密院顧問官の一人が尋ねる。
俄かには信じがたい報告。
「ああ、正確さを欠いた報告でした。まだ、受け答えが出来る職員のうち、王都に留まったものの全員が退職を希望していると申し上げるべきでした」
ぼそり、とまるで幽鬼さながらのガンバ枢密院顧問補佐官の呟く言葉。
それは、誰にとっても衝撃的というほかにない事実だ。
僅か、二月。
研究所の設立当初の諸事がまだ片付くかどうかも分からない時期。
よもや、この段階でこれほど多数の人間が逃げ出したいと嘆くとは。
一体全体何が行われているのか、という疑惑以上に枢密院の総意は一つの疑問を抱かざるを得ない。
「つかぬ事を伺うのですが、研究員の選抜実務は一体如何なる基準で行われたのですか?」
問われるのは、一体全体どのような人員を送り込んだのか、という疑念。
つい数ヶ月前、王国枢密院で彼らは確かに『選抜された人員を送り込むつもりだ』という方針を確認している。
そこらを歩いている人間を手当たり次第に徴兵して前線送りにするのとは、性質が違う選抜を取った筈だった。
譜代とでもいうべき、信頼できるグループの人員から、さらに選抜するものだと聞いている。
「道徳心にとみ、きちんとした教育を受けた心身ともに健全な王国臣民でした。全て、過去形ですが」
そう、過去形でした、と繰り替えすガンバ・ルー卿の姿。
それは、疲れ果て、磨耗しきった男の姿だ。
「選抜に問題がなければこうはならなかったのでは?」
「率直に申し上げれば、何か、手抜かりがあればこそでは?」
それでも、一部の人間は選抜基準に対する疑念を提起するのをやめようとはしなかった。
敢えて言うならばそれは、どこか、本能の部分で分かってしまうからだろう。
それは、『人員の問題であって欲しい』という希望的観測。
それは、『研究の内容』によるものではあってほしくないという願望。
「諸卿の疑念は尤もだが、それよりも先に、何故、辞めたいという声が出ているかを探るべきだろう」
聞いてしまえば。
知ってしまうのだ。
「ルー卿、卿の見解は?」
だが、それでも議長役を務める貴族は敢えて踏み込んで問わざるを得ない。
幾人かがぎょっとする中で、しかし、議長はだから明瞭に当事者の見解を訊ねていた。
「口頭の報告を纏めたものになります。読む覚悟があれば、どうぞ」
「失礼ながら、それはどのようなものなのかな?」
自分の口でガンバ・ルー卿が語るものだとばかり考えていた枢密院はだからこそ、口頭で返事があるものとばかり思っていたぞ、という呟きに包まれる。
王国の儀礼上、それは許されなくはないがあまり推奨されない無礼さだ。
洗練された廷臣であるルー卿がそれらを理解していないとは思えないのだが。
「私は、それを読むのが己の職責であることを呪いました」
だからこそ、そのぼやきはよく響いた。
「一生、肉は食べられなくなりますよ。確約しても良いぐらいです」
「……失礼、拝見しよう」
こんな男だっただろうか。
それとも、こんな男に変えてしまうほど過酷なのだろうか。
半ば、恐怖しつつ手元に廻されてきた羊皮紙の封を切れた枢密院の列席者らは。
「っ!?」
その報告書の概要に眼を通した瞬間、一様に言葉を失う。
「ち、知的生命体をばらばらに解体!? ほ、本気で言っていたのですか!?」
「事実です。しかも、遺族に事細かに語るのですよ。そのやりようを」
純人族の解体では、飽き足らず、リザードマンを最近はバラバラにし始めていますね、と遠い眼で語るルー補佐官の眼は何かを思い出したのか、虚ろと化していく。
「あげく、珍しい死に方なのでぜひバラバラにさせて欲しいと遺族に頼んで回っています」
茫洋とした声で呟かれるひとつの事実。
……死とは、安らかな眠りでなければならない。
死者には、安息を。
その、最低限度の配慮さえも行われないとすれば?
「し、死者の尊厳を一体、なんだとおもっているのだ、奴は!」
それは、冒涜に対する憤りだ。
死者には、眠りが許されねばならない。
死後に、まるで罪人のように遺骸を弄ばれるなど。
安らかな死後を望む、ささやかなそれさえも許されないなど。
「王国の名において、こんなことが行われているなど!?」
「死体をバラバラにもてあそんだ挙句、その分けた死屍を切り裂いてガラスにつめて展示しているとの報告が事実とは思えない!」
報告書の内容。
それは、実に悪魔的というべき悪行の数々。
記されている事実が、ただ、羅列された文字が。
まるで呪術書を構築するかのようなおぞましい所業をこれでもかと構築。
「猟奇的だ! いや、猟奇的過ぎる。この報告は事実なのですか!?」
「一つ、よろしいでしょうか?」
だから、その瞬間にルー補佐官が口にした提案。
「視察という名目でお邪魔しては如何ですか? M.D.ツーダ卿直々に嬉々として『献体』と『解剖学』とやらを説明してくれますよ」
ああ、失礼。思い出すだけで、吐き気が。
そういい残し、手元に用意されていた皮袋に嘔吐し始める彼の変貌。
響き渡る怨嗟の声にも似たうめき声をただ、ただ、反響させるガンバ・ルー卿の姿に誰もが恐怖せざるをえなかった。
「静粛に! 諸卿! 私は純然たる王国貴族の義務として忠告するが、M.D.ツーダ卿はれっきとした王国爵位の保持者であることに留意するように!」
王国は、『解剖学』の初期的な概念を入手しました。
王国の労働者は、簡単にサボる上に転職したがりだなぁとツーダ先生は嘆いています。