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一通り歌い終わって、帰宅の準備を始めながらまた澄香は窓からこっそり軟式野球部を見つめた。
あれから一年。
滝井君とクラスも離れてしまって、いよいよ接点がなくなった。
もちろん、あれだけで滝井君を好きになった訳ではない…と思う。
たまたま軟式野球部が練習する近くの校舎の中にコーラス部があって。
なんとなく目で追ってしまって…。
日に日に黒くなっていく肌とか。
日に日に坊主が似合う凛々しい顔付きになっていくところだとか。
教室でうたた寝する後ろ姿だとか。
たまたま拾ってくれたものを差し出す時の豆だらけな手だとか。
グラウンドでの、決してだらけないまっすぐな姿勢だとか。
『…滝井だけど。』
あのポーカーフェイスのままのセリフが頭から離れない。
あの、自分が逃げた時の、ポカンというか、あっけにとられたような真顔。
…恥ずかしい。
ほんとは後ろの席にいるのも恥ずかしかった。
クラスが離れてホッとしたのと、それとあのいわれようのない寂しさ。
…後悔にも近い寂しさ。
なんで自分から少しでも話しかけなかったんだろうな、と思う。
チキン過ぎる自分に、澄香は自然とうなだれた。
「…ばさん、千葉さん。」
グダグダ準備していた澄香の頭にポンッと楽譜が渡される。
「はい、いつもの。」
「あ。ありがとうございます。」
ふわりと顧問が笑って去っていく後ろ姿を見つめ、澄香はその楽譜もカバンにそっと直した。
「わー澄香も熱心だね。」
「え?違う違う、私ヘタ過ぎるから。」
うへーっとげんりしながら胡桃が天井を見た。
「私もヘタだけど、そんなに練習する気にはなれないわー。うん。だから、えらいよ!澄香。」
いや、胡桃は上手いのだ。
その性格と同じ性質の声はまっすぐで自信に満ちてとても魅力的である。
澄香はヘラリと笑って音楽室の掃除を始めた。
胡桃ぐらい伸びやかに声が出たらなぁ。
そんな気持ちで今日もみんなが帰った後少しだけ一人で練習する。
新しい、歌。
発声練習に近い、大会で歌うものとは違う簡単な譜面をカバンから取り出し、薄暗い教室で自分の声とだけ向き合う。
澄香はこの短い時間が好きだった。
…いつものように少し歌った後、沈みかけた夕日を見ながら廊下を歩く。
わー、綺麗。
良く晴れていたせいか、直接的な光が澄香の目をキラキラと焼いた。
手に真新しい楽譜を持ってカサカサいわせながらオレンジに染まった廊下をぼんやり歩く。
遠くでサッカー部と硬式野球部の声が聞こえた。
…軟式の方は、終わっただろうか。
あの真っ直ぐな、吸い込まれそうな瞳をぼんやりと思い出す。
この夕陽みたいだなと思った。
彼と、この柔らかいのに力強い光は似ている。
そんな事を考えていたら、左に曲がる角でドンッと体に衝撃が走った。
◆
…久しぶりに尻餅なんてついたと思う。
「…痛たっ…っ」
太ももから地面がひんやりしているのを感じた。
低い視界からふと視線を上げて、澄香は瞬きを忘れる。
…本当にこの人、夕焼けが似合うな。
ほんの一瞬の事なのだろうけれど、ひらりと舞った楽譜が止まって見えた。
滝井くんのあの目と見つめ合っている間、澄香は本当に息が出来なかった。
「千葉っ⁈…悪い。」
「…っ、えっ、あ、大丈夫。」
スッと出された手を反射的に握ってしまってハッとする。
失敗したと思った。
だって、この異常な脈が伝わってしまうから。
「怪我、ないか?」
な、なんで?
なんで滝井くんがこんな所に…。
澄香は唇が思わず震えた。
「だ、大丈夫。…滝井くんは?」
練習着を詰め込んでいるのであろうパンパンのバッグを脇に抱えた彼の足元から、勇気を振り絞って視線をあげてみる。
フッと微笑んだ彼の口元に更に脈が早くなった。
「俺は転けてないから。」
「あっ、そっかっ。………え?!」
どこも怪我していないと笑う彼の頬から何故か、一筋血が滲んでいる。
…あっ!楽譜…っ!?
さっきまでヒラヒラ舞っていた切れ味の良さそうな真新しい楽譜が目にとまった。
「ごめん…っ!」
んあ?と不思議そうな顔をする彼をよそに、澄香は慌ててカバンを漁り、手近にあった絆創膏をペタリと貼る。
あ、なんだかデジャヴ…。
澄香の脳裏にあの懐かしい光景が流れ出した。
「本当ごめん…スコアで切れちゃったみたい…。」
真横にたまたまあった手洗い台の鏡を滝井くんはぬっと覗き込んで自分の頬を確認する。
「………。」
「…あっ!えっと……ごめん。…今それしかなくて…。」
あー…。
また、やってしまった…。
何しているの私、と澄香は胸の中で頭を抱える。
今更ながらに気が付いてしまった。
絵柄のチョイスが、おかしい。
凛々しいはずの彼の頬に張り付いた、可愛らしいクマ柄のファンシー絆創膏に、ミスマッチという言葉以外に、澄香は思い当たらなかった。
「…。」
まだ鏡を覗き込んだまま微動だにしない彼に、澄香は更に右往左往する。
「や、本当にごめん。も、持ち合わせがそれしか…」
口が、勝手に動いた。
彼とこんなに喋ったのも、初めてかもしれない。
「…ふっ。」
突然、我慢が堪えきれないように肩を震わせて滝井くんが笑う。
わ、
笑った…っ。
あの滝井くんが…っ!
澄香は貴重な彼の笑顔に、内心大興奮しながら固まってしまった。
「ほんと、千葉は相変わらずだな…っ…ふっ。」
わっ…わわっ
まだ震えている滝井くんに、澄香の顔はドンドン赤くなり、いてもたっても居られなくなってくる。
そして、案の定耐えられなくなった体は正直に動き出した。
「あわっ…わっ、ほんとごめんね…っ血が止まったらすぐ外してね…っ!!それじゃぁ…」
この場から退散しようと急いで彼の横を抜けようとした、その時。
パシッ
差し込む、オレンジの夕焼けと
掴まれた、左腕の感触と。
「待って。」




