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…あ、滝井君だ。
澄香は楽譜を片手に持ちながら、窓から見えるグラウンドをぼんやりと眺めた。
バッターボックスに立つ彼は堅そうな帽子を深くかぶっていて、二階からはその凛々しい顔がよく見えない。
「なぁに?また軟式見てるの?」
同じコーラス部の胡桃が澄香の肩に顎を乗せ耳元でつぶやいた。
澄香はアハハとごまかすように笑って楽譜に目線を戻す。
もちろんそんな事をしても胡桃にはバレバレな訳で。
「あ、滝井くん、女の子から差し入れもらってる。」
「え?!」
胡桃の意地悪な声についつい反応してしまったり。
「うっそ。本当は受け取ってない。」
思わず窓から身を乗り出した澄香に胡桃はクスクス笑った。
「軟式野球部の滝井選手は硬派で有名だもんねー。」
目の良い澄香が目撃したのはタオルと一緒に突き出された手紙を、ちょうど一周してきた滝井君が断っている所で。
…こちらから女の子の顔は見えないけれど、いつもの難しい顔をした滝井君のポーカーフェイスだけは見えた。
風に揺られたスカーフの色で、あの女の子は一年生かぁとかぼんやり考えたり。
泣きそうな背中に、…自分を重ねてみたり。
「勇気あるなぁ。」
ひょこっと澄香の隣に並びながら胡桃が他人事よろしくつぶやいた。
「うん。…すごいね。」
片思い一年、と、1ヶ月。
澄香は尊敬の気持ちと、焦りとで複雑な表情をした。
我が校は硬式野球部が甲子園の常連で。
軟式野球部はその隣でひっそりと練習している。
与えられているグラウンドの広さも3倍近く違うし、ファンも圧倒的に硬式野球部の方が多い。
それでもこうして軟式野球部にもフェンス越しにファンが集まるのは。
「やっぱ顔かな。」
呆れたようにもらす胡桃に澄香がすかさず突っ込んだ。
「顔だけじゃないって。」
「はいはい。」
「おーい!自主練終わりーー。集まって合わせるよー。」
緩い顧問の先生の緩い声が第二音楽室に響いた。
はーい、とパラパラ集まり出す部員に混じって澄香も列に身を置く。
♪♪♪…♪
柔らかいピアノの音に声を乗せながら澄香は一年の時を思い出した。
…入学して一週間したある日、前の席のイケメン君が突然坊主にした。
お洒落とは程遠い完全な坊主に、毎日色めき立っていた周りの女の子達からは真逆の悲鳴が鳴り響き、その日を境に騒がしかった前の席は秋のように静かになった。
正直、毎日キャッキャッ聞こえてくる黄色い声がやんで、澄香はホッとしていた。
前の席の彼にそれほど興味はないし、休み時間は出来るだけ静かに過ごしたい。
かといっていつでも騒がしい前方を注意する勇気もない。
そんな感じだったので、悲鳴の嵐から何時間かして澄香は初めてマジマジと前の席の人物を見つめる事になった。
うん、まぁ、確かに背中だけでも格好いい、かな。
広くて、適度に筋肉がついた背中。
なんで坊主にしたのかなぁ。
澄香はぼんやりと思った。
男の子って、モテたいと思うのが普通なんじゃないだろうか。
「ものすごくもったいない。」と朝から騒いでいた友達の声を思い出す。
でもその答えは簡単だった。
彼は部活を始めたらしい。(周りの大量に飛び交う噂話で分かった事だけど。)
確か硬式は入学前から入部試験があったり大変らしいけど、軟式の方は大丈夫みたいだった。
「ふぅ…」
放課後。
前の席から聞こえた何気ないため息。
いつも女の子がくっついていた彼からもれた、安堵にも似た響き。
帰宅…、というか部活に行くため机の上を片付け始めた彼が不意に剃りたての頭をポリポリ掻いた。
自分で剃ったのか、後ろの方は所々虎刈りになっていて、しかも傷みたいなのもあり、耳の後ろに真新しいかさぶたが出来ている。
澄香も自分の机を片付けながらなんとなくそのまるっとした頭部を眺めていた。
ガリっ
すると、ふと彼の爪がそのかさぶたをかすり、ポロッと外れた。
「!」
うわっ!
傷からは、つつつと細くて赤い血が流れはじめている。
彼は気付いていないのか、またカバンの中に教科書を突っ込みはじめた。
「うわわわわわっ!」
意外な血液の多さに勝手に澄香は後ろで慌てる。
とっさに自分のカバンを漁り、ばんそうこうを取り出そうとした。
その間にも耳の後ろから首にかけて血は流れる。
うわっこのままじゃ白い襟に血が…!
血は一度つくと中々取れないのに!
男の子なんか絶対すぐに水洗いなんかしなさそう…とかどうでも良いことを思いながら、澄香はほとんど条件反射でティッシュをバシンっと前の席の人に擦り付けていた。
いきなり後ろから頭をティッシュで拭かれて、さすがの彼もビクッと肩を揺する。
クルリと振り返った怪訝な顔に、今度は澄香がビクッと肩を揺すった。
「ごごごめん!…でも血が…っ」
初めて合った、吸い込まれそうな引力のある瞳。
綺麗な顔立ちは確かに剃りたての坊主にミスマッチだ。
妙にドキドキしながら言い訳でもするように澄香は拭き取ったばかりの血を前に突き出した。
「襟につきそうだったから…っ」
結構な量の血に彼も少し目を丸くする。
「わ、…ごめんな。」
ティッシュを受け取りながら彼が初めて顔の筋肉をふわりと緩めた。
ほんのちょっと、ちょっとだけだったけど。
わ…
なんだか喋っているのも恥ずかしくなってきて、澄香は急げる最大限のスピードでペチンと傷にばんそうこうを貼って席を立つ。
そして、カバンを掴み、逃げるように叫んだ。
「じゃあねっ竹井くん!!」
「…滝井だけど。」
「!」
う、
う、
うわーっやってしまった…っ!!
澄香はそのまま校門までダッシュ。
…そして、
現在にいたる。