第七十話 真空海月
明けの烏、というわけではないが、
朝一番に鳴く鳥たちの声に、ボクは目を覚ます。
冬と無縁のこの国の木々は常緑樹の楽園のようだ。
熱帯生の果樹が真新しい朝日を受ける気配を感じる。生き生きとしていて、ボクまで清々しい気分だ。
そんな朝に、いつも近くに感じる地球人の気配は無い。
この家、この街、もしかしたらもうこの国を出ている頃かも知れない。
夜半にメイスは、旅立ったのだ。
昨日はボクの気持ちを告白したのに、フラれちゃったね。
フラグが立っていなかったか。好感度が足りなかったか。
たぶん両方だろう。ことを急ぎ過ぎたのだ。
……まぁ、半分は狙ってやったのだけれど。
メイスは他人を蔑ろにして幸せを享受できるタイプじゃない。
それならいっそ幸福から手を放してしまう方だ。
素直じゃないのだ。頑固なことだね。
そんなメイスは、分不相応な望みを抱いている。
大きな夢を見ることはもちろんいいことだ。
でも悲しいかな多くの場合、他の小さな望みを追いかける間にその夢を諦めてしまう。人は老い衰え時間には限りがあるのに、欲張りで望みには限りが無いから。
それはそれでいい。
たとえ夢が叶わなかったとしても人は幸せになれる。
人の幸せなんてものは、誰かと触れ合えれば満たされてしまうようなものだ。すぐに飽きて次を求めるとしても。
けれどメイスは、他人の幸せを望んでいる。
それも一人ではなく、周りにいる人全ての、だ。
偽善と笑うまい。誰もが抱く類の幼い願いだ。
けして叶えられない望みが、
叶わなければ、全て終わり。
要するに、詰んでいるのだ。
別に珍しいことでもないが、叶えてしまう以外は諦める他無い。幼い夢を現実に砕かれるのが大人の階段の一段目だよね。負けて泣いて立ち直って大きくなっていくのだ。
特にメイスの場合、ボクを始め、周りにいる人の事情が複雑だ。
適当なところで諦めるかと見ていたが、次々に増える問題を抱えて潰れてしまいそうに思えた。
これがメイスだ。
大人の自覚で子供の夢を見る。危うい女の子。
なまじ実力があるから、周りの人も計りかねていたのかもしれない。
すわ天才か神童かと、ちやほやされて来たのだろう。
だから昨日は少し厳しいことを言わせて貰った。
諦めてしまう以外は、叶える他無い。
そのためには、他の全てを諦める覚悟も必要だ。
がむしゃらに頑張る姿は好感が持てるがそれだけではいつか身を滅ぼす。
自分に出来ることを見定めて、取捨選択していかなければならない。
余計なことに目をくれるべきではない。
何、メイスが放り投げてしまった諸々の問題は、ボクが面倒を見るとしよう。
うふふふぅ、メイスのお尻をひっぱたくようなこと言って、今度はそのお尻を拭いてあげるのだ。
メイスの行き先を知るボクが喋らなければ、エッジ君は何処へも行けないだろう。納得はしないだろうが、ボクの方から旨く言っておく。
ユニコーンの冠やボクら魔物の素材についても、この国の魔法士たちに全面協力しよう。ウルミちゃんのフォローもしておこう。
クラーケンも、ボクが面倒を見よう。そのために仲良くしているし、ボク自身のこともクラーケンに見てもらえるしね。
きっとメイスはそれを期待して、何も言わずに出て行った。
ボクのことを信用してくれたのだ。
……と、いうことにしておこう。
不安があるとすれば、バジリスクのことか。
どうもメイスの目的は、件のお友達にありそうだ。その目的のために、手段としてボクらを持ち出している節がある。
ならば別に危険なことはしなくてもいいと思うのだが、それでもメイスが行きたいというなら是非も無い。
メイスの自由を尊重しよう。ボクは言うだけのことは言った。バジリスクの危険性もちゃんと言い含めた。
無茶なことはしないと、メイスを信じよう。
十全とは言えないが、身を守る術も用意しておいた。
クラーケンの墨を小瓶に移しておいたし、ボクの種を置いておいた。
テーブルを見るとドラゴンの杖と一緒に無くなっている。ちゃんと持って行ったみたいだね。
ウルミちゃんに宿ったユニコーンの力を見るに、あれを使えば何の抵抗も出来ずに瞬殺ということは無いだろう。砂漠には巻き込むものも何も無いし、魔力を使い果たせば素材の魔物の気配も弱まるはずだ。
あとはメイス次第。
だから、これで良しとしよう。
生きてさえすれば、また会える。
それまでメイスのお尻を撫でるのはお預けだね。
あれは中々のお尻だった。ちゃんと食べて運動している子のお尻だ。
出来れば目で見てもみたいのだが、お風呂を覗いても着替えを覗いても、メイスは前を隠そうともしない。
実は見て欲しい方なのか?とも思ったが、あれは前を見せ付けてるのではなくて、後ろを隠しているのだと思い至った。
たぶん、背中に鞭傷か何かがあるのだろう。
奴隷の過去があるにしては身体が綺麗過ぎる。
本当は黒髪のメイス。奴隷の過去も鞭の恐怖も、ボクが再調教して忘れさせてあげるというのに。
自らの意志で、今も奴隷制の残る赤の国へ向かうというんだね。
ボクらを助けられるというのなら、やってみればいい。
魔王の剣とやらがどんな願いでも叶えるというのなら、メイスの願いを叶えてみせろ。
まぁ、十中八九失敗に終わるだろうけど。
あっさり出戻りして泣いて縋り付いて来ようものなら、そのときは仕方が無い。甚だ不本意ではあるが、やはり無理矢理手篭めにしてしまおう。
言うことを聞かない悪い子にはおしおきが必要だ。
「おねがい、たすけて」と泣き縋るメイスは、例え様も無く愛らしいことだろう。
可愛い子には旅をさせるが、愛しい人は側に置くのがボクの主義だ。
もう危ないことはしないように。ボクの側から離れないように。
ボクの力で芥子を生み出し、阿片を精製してヘロインを造る。
手足を縛り体中を開発して、ボク無しじゃ生きられないようにしてあげる。
あれ? なんだかそっちの方がいいように思えて来た。
メイスの失敗を期待するなんて、ボクもいやらしいことこの上ない。
そうならないように、メイスには頑張って欲しい。
ボクを喜ばせないでね?
……むぅ、またムラムラしてきてしまった。
というわけで、メイスの寝室の箪笥でも漁るとしよう。
今日からしばらくボクだけの宝箱だ。
せいぜい失敗しないように、じっくりと事にあたるといいよ。
きっとボクらを助けてみせてね?
失敗したならば、早くボクのところへ戻っておいで。
そのときこそ、メイス……、
うふふふふぅ………、
●
ぞわわぁ………!?
何!?なんかすごい悪寒がしたぞ!?
港の船は出ないし、出鼻を挫かれて縁起まで悪いなぁ……。
しかし何で赤の国への船が出ないのか。そろそろ早朝便が出港する時間のはずなのに。
港のポパイたちに聞いてみると昨日くらいから赤の国の港が閉鎖されているらしい。何かあったのだろうか? これでは出国出来ない。格好悪いが一旦戻るか?
……ぶるり。なんか、それだけはしちゃいけないような気がする。
夜中に家を出るとき、テーブルの上には蜥蜴の翼と墨の入った小瓶と植物の種が置いてあった。
アルラウネが用意したのだろう。私の行動など完全に読まれているということだ。
アルラウネは、知っていて私を引き止めないのだ。
私の自由を、尊重してくれている。
アルラウネに、愛の告白のようなものを受けた。
私が死ぬまで愛すると。
私に幸福だけを与えてくれると、言ってくれた。
だから私はもうここに居られない。
アルラウネの言う幸福というのは人間を駄目にする類のものだし、
私は、誰も好きになったりしないから。
でもこのままアルラウネに側で甘い言葉を囁かれたら、私は簡単に靡いてしまうだろう。
だらだらと爛れた快楽に溺れて、耳を塞ぎ目を閉じて、空虚な幸せに作り笑いを浮かべたような人生を終えるのだ。
中身の無いシアワセの中で、飼い殺しにされてしまう。
ある意味では、それもいいかもしれない。
この異世界で一人ぼっちで生きて死ぬ。一時はそうも思った私だ。
偽りだとしても、幸せの中で死ねるのなら……、
嘘だよ。
そんなのはもちろんイヤだ。
イヤだイヤだと、駄々を捏ねさせてもらう。
わがままを、言わせてもらう。
聞いてくれるんだろ? アルラウネ。
だから私を、行かせてくれるんだろ?
色々な問題を残していくけれど、
アルラウネが言ったとおり、余計なものは切り捨てることも必要だ。
私が戻るまで、アルラウネに全部任せてしまおう。
無責任と罵られても、
不誠実と詰られても、
一番の望みを、叶えるために。
アルラウネやクラーケンを助けたいだなんて言って、代わりに私は剣が欲しいと言っているに過ぎない。そしてそれすら、いいわけだ。
あの剣に願えば、どんな願いも……、
それも嘘だよ。私の願いはグラディウスには叶えられない。
今の私の本当の願いは、それほどまでに我が儘なものだ。
私は、本当は……、
マスケットに………、
○
船が出ないので、別の方法を考える必要がある。
まぁ考えるまでも無く、手はあるのだが。
出来れば使いたく無いんだけどな。
重量を軽くしないと。荷物のほとんどをここに置いて行くことになる。
港町から少し離れ、海を見渡す無人の岸壁で背中のリュックから必要なものだけを選別する。
着替えすら持っていけないか。財布くらいは持って行こう。
クラーケンのイカ墨の小瓶と、
アルラウネの花の種と、
解読の済んでない蜥蜴の翼。
これだけ持って、飛んで行こう。
リュックの底から、大きな布を取り出す。
タオルでも布団でもない。
私が最後に作った魔道具。
グリフォンの爪を使った、魔導器だ。
人が着るにはどう見ても大きすぎる服。
特にスカートと袖が大きく、革のベルトが骨のように張り巡らされている。
広げて裾から頭を突っ込み潜り込む。頭を出してなんとか袖を手繰り……、何度着ても慣れないなぁ。通気性が全く無いからめちゃくちゃ暑いし。
その上重い。かなり軽い素材を厳選したのだがこの大きさだし、まともに動けない。なんとか足と手、身体をベルトでしっかりと固定した。
一度魔法式を起動する。
ビュゴゥ!!と風が吹き、左右の補助笠と主笠に空気が入って広がった。
身体にも繋がる革ベルトの骨にしたがって、傘のように広がるスカート。
杖を格納するためのポケットに蜥蜴の翼を仕舞い、魔道具小物を格納する袖のポケットに残りの荷物も全て入れる。
とんがり帽子の顎紐を確認して、深く被り直した。
大きく深呼吸。
魔力を練って、慎重に魔導器を起動する。
風が巻き起こる。主笠の表面に書き込まれた風の反転魔術が『真空』の膜を生み出した。
布表面に薄く広げるように生み出された真空が揚力を生み、周りの空気を無視して本体の布地を吸い上げる。
主笠の内側から生み出される空気の相対的に大きな気圧が、私の身体を持ち上げる。
真空に引っ張られて、空を飛ぶ。
結局今まで使うのが恐くて、倉庫に仕舞っておいたけど、
人に盗まれてしまうのも恐くて、肌身離さず持って来たけど、
諸々の無責任のついでだ、もう私は目的のために手段を選ばない。
グリフォンの素材も使う。地球の知識も遠慮無く使う。
私は火薬は作れないし、ガソリンエンジンも作れないけど、
飛行機は作れる。揚力というものを、知っている。
私が最後に、作ってしまった魔道具。
あの三月式典までの一年掛かりで試験を重ね、完成させた個人用飛行魔導器。
揚力気球『真空海月』
ゆったりと宙を浮かび、突風撃で上昇していく。
突風の魔術で少しずつ上昇する度に、主笠が閉じては開き、さながら海を泳ぐクラゲのよう。
上手く上空の気流に乗れば、赤の国までは半日で着く。
向こうに着いたら、今度は本当に一人旅だ。