第三十二話 白の国
おだやかな船の揺れ。
耳をくすぐる呟くような声に夢現の海を浮き上がる。
まどろむ私が薄く目を開けると、月明かりの夢を見た。
船室の窓から差し込む三つの月の淡い光に照らされて、ベッドに座る女が一人。
海で失くした短剣の鞘を見つめて、独り言を呟いていた。
「………あんたもあんな風に、あたしを担いで魔導兵器の火から逃げてくれたもんだねぇ」
女が何を言っているのかは、わからない。
女の表情からも、心情を窺うことは出来ない。
私は眠くて、なんとなく、私が眠っているからあんなことを呟いているのだと、わかった。
「あんたが死んでどれくらいになるか…。ガラにもなく思い出しちまったよ。このあたしが感傷なんてさ」
それ以上のことは考えられない。
私は眠くて、頭が覚醒を拒んで、また夢現の海に沈んでいく。
「こいつを助けに海に飛び込んじまうし、どうかしてるよ」
「あたしはあんた以外の人間、誰も信じちゃいないってのにねぇ。色付きも黒髪も、あんた以外は豚ばっかりだ。30年生きてもそう思うよ」
「ははん、どうかしてると言えばこいつさ。魔物見るなり真っ青になってさ、泣きそうな顔してんのに逃げずに戦うんだよ」
弱いクセに無理して、結局おっ死んだあんたとそっくり。
きっと情が移ったんだろうねぇ。
あたしはこいつのことなんか、どうなろうと知ったこっちゃないはずなのにさ。
ほんと、おどろいたよ…。
それだけ言うと女は鞘を置いて、口を閉ざしてしまう。
私も、いつのまにか目蓋が降りて、この夢で見たことも忘れてしまった。
○
一時はどうなることかと思ったが、ようやく白の国に到着した。
結局船が港に着いたのは翌朝のことだったが、無事に辿り付いたことに誰もが抱き合って喜んでいた。
私とサイのために町で一番大きな酒場を貸切にすると言い出す商人もいたが、丁重にお断りした。宴の誘いは嬉しいが、遊びに来たわけではない。
「もったいないねぇ。タダで飲み食い出来たってのにさ」
「ありがたいけど、遊んでる暇なんてないよ」
「はん、まぁ代わりにその杖貰ったし、あんたは得したかもしれないねぇ」
「いやほんと、いい杖だよコレ」
その商人というのが、あのときサイが倉庫から拝借してきた杖の持ち主だったのだ。どうしてもお礼がしたいというのでこの氷の杖を頂くことになった。
改めて中身を解読してみると結構な性能。中には私が知らない魔術の式もあった。こんど試してみよう。
合計で48の氷魔術と52の水魔術を省略してくれる。私の師匠は○リンスカメハメではないというのに。
お店に並ぶ杖としては一級品だ。
「まぁいいさ。どっちにしろしばらくこの国にいるんなら金を稼がないといけないし、その杖も役に立つはずさね」
「そうだなぁ…」
「町に出たら冒険者ギルドにでも行くかぃ? 航路で商船が魔物に襲われたんだ。きっとすぐにあのイカの討伐依頼が出るはずさ。あんたなら取り分はかなり取れるし、あんたが行くなら他の冒険者も安心して依頼を受ける。頭数も増えるだろうさ」
「……いや、やめとくよ」
氷の杖を見る。
商品としては一級品。
しかし、一流の魔道師が持つには少し以上に不足だ。私にとっても。
この杖を使って、あの窮地を凌いだ。
でもそれは、この杖のおかげというだけではないかもしれない。
あのイカはたぶん、本気じゃなかった。
最後は氷漬けにしたけど、召雷が効かなかったんだ。何のダメージにもなっていないだろう。私が敵う相手じゃない。
「おやおや、臆病風かぃ?」
「何とでも言えよ。でもどうにかして金は稼がないとな」
「はん、腰を据えるなら、住処も探さないとねぇ」
やることはいろいろある。
召喚魔術を探さないといけないし、魔王の城にも行っておきたい。
サイの言うとおり、落ち着ける住処を探さないとな。
全ての用事が済んだら、2年後の三月式典に行く。
グラディウスの願いもそれまで保留なので、剣を譲る約束もその後。サイとも2年間一緒に居なければならないのか。今から心が腐ってくるぜ。
…そういえばグラディウスが大人しいな。
あのイカと戦ってたときなんか、すぐに自分に願えーとか言ってきそうだったのに。
いいかげん抜き身のままで歩くのも不恰好なので今は布で巻いているが、グラディウスは布越しに触れても会話は可能なようだ。
『む 私に何か用か?』
「いや、なんか大人しいなと思って」
『大人しいも何も この身は剣だ 本来なら話すことも無いのが普通だと思うが?』
「いまさらそんなことをお前本人から言われるとは思わなかったけど、ほら、船でもなんか様子が変だったし、あのイカとか、私に願えば消してやるぞーとか言ってこなかったし」
『ふむ… お前がそれを願うなら 叶えてやらんことはないが……』
うんまぁそうだろ………ん?
叶えてやらんことはない?
なんだか消極的じゃないか?
………、
…もうちょっとツッコんでみるか。
「あ~そうだな、今からでもあのイカ消してくれって願ってみようかな~どうしようかな~」(チラッ)
『……… …お前は元の姿に戻る願いが決まっているのではなかったか? 本当に願うつもりか?』
おお。
願いを叶えるのを渋ったぞ。
『ふむ お前が本当に願うというのなら 私は叶えるが』
「いや冗談だよ。願いは保留」
おっと、うっかり叶えられて願いが無くなってしまっても困る。
取り消しは効かないだろう。
それにしても、あのイカに何かあるのだろうか?
「お前あのイカと知り合いなのか?」
『いや 知らん 会ったこともない』
「そんなことないだろ。教えろよ」
『……… 願いが保留なら 話はもう無いな』
「あ、おい」
『…………』
………、
黙ってしまった。
すごく気になる。…が、黙られてしまってはどうしようもない。
グラディウスが関係あるとすれば、必然魔王の名前が挙がるが…。
……まぁ考えて答えが出るものでもないか。そのうち魔王の城にでも行けばグラディウスの気も変わるかもしれない。
今解決しておかなければいけない問題は他にある。
「ところで、サイ」
「ん、何だぃ?」
「いつまで私を抱っこしてんだ?」
朝に白の国に着いて、今は港から出て町に差し掛かったところだ。
その間中、ずっと抱っこされている。後ろから抱かれて私の後頭部がサイの胸に埋まっている形だ。腋から両腕を回されて足が地面に付いていない。
「べつにいいだろぅ? 減るもんじゃなし」
「いや、気色悪いからやめて欲しいんだけど…」
なんでこんなベタベタしてんだコイツ?
気色が悪い。なんていうか、いつものセクハラとも違う。生理的な嫌悪とかじゃなくて、純粋な恐怖に近い。
船を降りた辺りでナチュラルに抱っこされたもんだからどうツッコんだものか言い出せないでいたが、そろそろいいだろ。この状態で町を歩くのもどうかと思う。
「細かいこと気にするんじゃないよ。あんたの歩幅に合わせて歩くのも疲れるんだ」
「いや細かくない。おかしいだろ。なんだこの状態?」
私とサイはただの取り引き相手でしかない。それさえなければ敵に等しい。幼女にされて奴隷商に売られた恨みがあるのだ。サイは私のことをどうでもいいと思っているようだが、私の方は死ねばいいと思っている。
それが何故こんな、あたかも親子か姉妹のような振る舞いをせねばならないのか。
たしかに、サイは高身長というほどではないが足が長いので歩幅が大きい。それにくらべて私は背も小さいし歩幅も小さい。
だからと言って私が抱っこされる理由にはならない。なんで後ろからぶら下げ抱っこなんだ。お子様扱いはやめて欲しいんだが。
「体勢がキツい。しんどくなってきた」
「そうかぃそうかぃ。ならちょいと早いけど、昼飯にしようじゃないか」
………、抱っこをやめるつもりは無いようだ。
何かの前触れだろうか。なんか不安になってきたぞ。
やはりサイは何かを企んでいる。そう思わずにはいられない。
なんとかサイを振り払い、自分の足で立って歩くことにした。
○
白の国はこの港町と首都から成る小さな島国だ。国土のほとんどを森と山に囲まれていて、動植物の楽園でもある。点在する村も数えるほどもないらしいが、田園風景と稲に似た作物の絵を本で見たことがある。ちなみに危険な魔物は一切いないらしい。海岸から上陸する海洋棲の魔物もいるらしいが、そもそも数が少ないし、陸地での奴らなど陸に上がった河童も同然だ。
この港町は白の国第二の都市。それなりの大きさの町である。青の国の西の街よりは小さいが、東の街よりは大きい程度。
港は倉庫ばかりで青の国の港とそれほど変わりが無い。だが、一歩町に入ると文化の違いを目にすることが出来た。
青の国の街はレンガや石造りの建物が多かったが、この国は木造の建物が主流のようだ。そういえば白の国の木材は質がいいことで有名だ。良質な素材が豊富にあれば用途の幅が違ってくるのか。赤の国はどうなんだろう。
町の人を見てみると特徴的な服を着ている人が多い。他国の人と服装が大きく違うのは気候のせいだろう。皆涼しそうな装いだ。
白の国は暑い。一年中暑く、冬は無いらしい。もう秋も半ばだというのに、汗ばむ気候だ。熱帯か亜熱帯の気候に近いのかもしれない。夏は地獄だろうな。
そして食だ。
青の国の食文化はどちらかというと肉食に偏っていたが、この国は島国、山林には野生動物もいるだろうが、基本は魚食に偏っているようだ。
そう魚。
この国では魚を、生のまま切り身にして食べる。
私にとってはとても懐かしい。ただ釣った魚を切って食べるだけのこの刺身という料理がなぜ今まで食べられなかったのか。
この世界には醤油も山葵もある。山葵は私の知る物と形が全然違う植物だったが、独特の刺激はたしかにわさびだった。醤油の方は種類も豊富だ。醸造所を覗いたことは無いが、濃口薄口溜りに白醤油もある。茶碗蒸しが食べたい。
他には米の生産も有名だ。日本酒みたいなお酒もあるし、私としては是が非でもこの国に住みたいところである。
そして、
黒い髪の人が、いる。
道を普通に歩いている。他の髪色の人と同じ格好で。露店で買い物をしている。法外な値段でボられたりしてない。食堂でご飯を食べている。他の人が見咎める様子はない
町を歩いて五人ほどの黒髪を見かけたが、奴隷はまだ一人も見ていない。やっぱり噂は本当だったんだ。この国では魔族が普通に暮らしている。
「えらくご機嫌だねぇ」
「ああ、楽園にでもたどり着いた気分だ」
「そいつはよかったねぇ、あたしゃメシが味気無くて敵わないよ」
「お前は刺身を何もわかっちゃいない」
昼食を済ませてからも町中を歩き回り、白の国の文化を大いに堪能した。宿屋に入った頃にはもう夕方だった。
これからのことを考えると夢が広がる。希望が湧き上がる思いだ。
「この国ならもう髪も元に戻して大丈夫かもな!」
「あたしはそうした方がいいだろうけど、あんたはやめときな」
「………わかってるよ。言ってみただけだよ」
たとえ差別は無くとも魔力のある魔族は異端だ。私は黒髪に戻すべきではないだろう。
わかってはいるが、テンション下がるなぁ。
逆にサイは今魔力の無い緑髪ということになる。こっちはこっちで問題だ。
魔道師にさえ見られなければ大丈夫だが、サイの髪は早いとこ戻した方がいいだろう。明日首都に行く道すがら町の外でやればいいか。
「さてっと、話の風呂にでも入るとしようじゃないか」
「え、お前も入るの?」
「当たり前だろぅ? 楽しみだねぇ温泉なんて初めてさ」
「…………」
白の国は温泉国でもあるらしく、この町の近くにも豊富な源泉があり、この宿もそこから温泉を引いているそうだ。宿の主人が自慢していた。
温泉は私も楽しみだ。楽しみなのだが…、
「その…、時間をずらさないか? 私とサイが一緒に入る必要なんてないだろ?」
「何言ってんだぃ。早いとこ入らないと別の客も入る時間になるじゃないか。あたしたちは他人と入るわけにゃいかないだろう。心配しなくても、おイタはしないよ。ほら早く来な」
首根っこ掴まれて連れて行かれる。
サイの言うことはもっともなのだが、う~ん。
○
「何モタモタしてんだぃ。先に行ってるよ」
「…う、うん。すぐ行くよ」
脱衣所で間誤付く私を置いて、さっさと服を脱いで行ってしまうサイ。
…脱ぐのに全く躊躇が無い。あいつは私が元々男だったこと知ってるはずだよな?
相手はサイだとはいえ、仮にも女性と同じ風呂に入ることになるとは。
……なんとなく目を逸らしてしまったが、浴場に入ってしまえばそういうわけにもいかないだろう。
いや、サイの裸は前にも見たことがある。それに女の裸というなら毎日自分のを見ているのだ。いまさら恥ずかしがるのも変なのだが、うぅん。
…あまり時間を掛けると他の宿客が来てしまう。覚悟を決めるか。
いざ、足を踏み入れる。
温泉は岩を組んで囲った小さなものだった。露天じゃないんだな。町中の宿の風呂だし当然か。
サイと私以外には誰も居ない。何のことは無いはずなのに、公衆浴場の女湯という事実がなんだか気恥ずかしかった。
おずおずと湯船に浸かると、かなり熱い湯温に息が漏れる。
「ふぅぃ、しかし風呂ってのはいいもんだねぇ。こんないいもん毎日入ってさ。色付きどもは贅沢だねぇ」
「……あ、あぁ」
「…………」
湯船の端で小さくなる私にサイが近寄ってくる。こっち来んな。
「いまさら何恥ずかしがってんだぃ」
「ちょ、やめろって…」
サイの手が私の肩を掴んで無理矢理向きを変える。
サイの裸体が、思い切り視界に入った。
「…………」
「はん。温泉っても、ただの熱い風呂じゃないか。ちょいと期待はずれだねぇ」
サイはスレンダーだ。胸はそれほど大きくないのだが、全体的に引き締まっていて四肢が長い。モデル体系である。
腹筋がくっきり割れている。私を担いで軽がる飛び跳ねる膂力を持つ身体。ちょっと格好いいと思ってしまう。
対する私はすっとんとん。胸は平らで尻は薄い。背中には鞭傷の跡が痛々しく残る。
私は背中が痛々しいが、
サイは全身が痛々しかった。
初めて見るわけではないが、こうして明かりの下でしっかり見たことはいままで無かった。
背中と言わず胸や腹と言わず、両腕両足にいたるまで全身傷跡だらけ。
鞭傷だけじゃない。判別は難しいが、火傷跡だろうか? 明らかに刀傷と思えるものもある。肩には文字のような傷跡もあった。
当たり前のことだが、サイも昔は奴隷だったのだ。
どんな扱いを受けていたのかサイは口に出さないが、全身の傷が何よりも雄弁に語っていた。
「どうしたんだぃ? いまさらあたしの裸が珍しいのかぃ」
「いや、たしかにいまさらだと思うけどさ…。私は元々男だったわけだけどサイはそこんところどう思ってるんだ?」
お互い傷のことには触れないが、代わりに聞きたいことを聞いた。
それに対するサイの答えは、
「あんたは今男なつもりなのかぃ?」
という疑問だった。
…………、
…正直なところ、わからない。
私はサイに、グラディウスの力で幼女にされた。どうにもそれは身体だけの話ではなかったようだ。
こうしてサイの裸を見ても、性的興奮を覚えることはない。
まぁ年増の裸にどうにかなる趣味は無かったつもりだが、しかしこれはどうなのだろう?
もちろん自分の裸を見ても何かを感じることは無い。
これでも最初は、あるべきところにあるべきものが無いという事実にヘコんだりもしたが、今思うと拍子抜けするほど簡単に適応した。
この姿になって次の日には檻の中だったので余裕が無かった、ということもある。
だが、これが剣の力だというところが大きいのだろう。
「ここしばらく一緒にいて思ったけどねぇ、あんた本当に女の子だよ。というよりガキだ。か~なりあたし好みだよ」
「…………」
その後、剣と再会し、私の存在はそのもの「小さな女の子」に変えられて、元の僕はもう一欠片も存在しないという事実を聞かされた。
意識としては、男であるつもりだ。
しかし、自分でも男として矛盾した認識を持っているのがわかる。
「……私は、どう見える? あの時この姿に変えられる前と、どう違っている?」
「…ふぅん、自分じゃわからないのかぃ。…っても、言葉で説明すんのも面倒だねぇ。少なくともあたしは、今のあんたを男扱いする気にはならないよ」
「…………」
私が男であることを知る唯一の人間に、そんなことを言われては立つ瀬が無い。
グラディウスにも何度も言われてきたことだが、ヘコんでしまう。
サイは私の悩みなんてどうでもいいんだろうな。事実を事実として受け流すのがスタンスのようだ。
だが私は必ず元の身体に戻る。この世界でのケジメをつけて、グラディウスに身体を戻してもらい、召喚魔術で元の世界に帰る。
女の身体でいるのはそれまでだ。剣の力で心まで変えられたのなら、また剣に願えば全て元通りになるはず。私さえそれを忘れなければ、必ず元に戻るのだ。
それまでは甘んじて受けいれるしかない。
…でも、それが我慢だというほどのことも無いのは、私が確かに少女なのだという証明なのかもしれない。