最期の別れと願い
全身がびしょ濡れだ。上下の下着がもわっとした湿気を帯びている。体からだけでなく、額、頬、そして、瞳からも大量の体液が流れ出ている。
また気絶してしまったようだ。あれからあいつはどうなったのだろうか。もしかしたら、車にでも引かれたのではないかと流石に心配になる。しかし、なぜ泣いているのだろう。あいつの姿を見る直前に飛び起きた記憶しかないのに不思議である。一刻も早く起きたい気持ちはやまやまだが、いくら夢をいい方へコントロールできる僕であっても、いや、だからこそ、意識して夢から覚めることを一度も試してみたことが無く、どうやったら目が覚めるのかが全く分からない。仕方なく、この世界の物語を進めてみることにした。
眩しい。今は朝日が昇ってから久しいのか、僕の両目に大量の日光が降り注ぐ。夢にまでみた、いや、本当に夢なのだが、木実ちゃんと本音で会話ができるようになったのであった。早く学校に行こう。
未だ両目が朝日に慣れないうちに、誰かが僕の肩を抱き抱えた。またあいつか。朝から人の家で何をやっているのか。ひょっとしたら僕を迎えに来てくれたのかも知れない。あんな夢を見たあとなのだ。
「公男、公男」
聞き覚えのある声。しかし、いつもの気丈でふてぶてしい元気な母の声とは明らかに違う。木実ちゃんの次は母まで人格が変わってしまったのか。
「あんたが、あの子に冷たくするから!あんたがいけないのよ!うっ、ううっ」
母が、泣いている。僕の覚えている限り、生まれてこの方母が泣いた所は見たことが無い。僕が誰かに冷たくしたせいらしいが、全く記憶にない。冷たくされた経験は何千回あれど、いじめられないようにと極力穏便に人と接してきた僕にとっては心外にも程がある。いや、最近になって一つだけ、心当たりがあるではないか。必要以上にベタベタしてくる、どんな時でも僕の見方でいてくれる、あいつだ。ついさっきの出来事を悔やんでいるために、こうして夢で母親から責められるという形で反省しているのかもしれない。
「母さん、僕が悪かったよ。もう泣かないで。許してよ。すぐに謝ってくるから。あいつに…」
そう、今までのことを謝らなくてはいけない。助けてくれたのに突き放したこと。いつも僕の見方だったたのにいじめの腹いせにいじめたこと。僕から手を差し伸べたのに母に付けられた名前が気に入らなくて嫌いになったこと…。
……。…え?
僕は、何を言っているのだろうか。名前が気に入らなくて?そんな理由で嫌いになったわけではない。あいつの名前は特に変な所などないし、そもそも僕の母があいつの名前を付けたはずはないのだ。名前のせいで嫌いになったのは、とまと…とまと?
「何言ってるの!そんなことしたって、もう手遅れなのよ?元はといえば、あんたがきちんと面倒見るっていうから育てるって言ったのに。あんたがとまとのことをあんなに嫌わなければ、家を出て車にひかれることなんて無かったのよ!」
母はひざまずき、両手で何かを大事そうに抱え、再び大声で泣き出した。恐る恐るその両腕を覗き込むと。
「と、とまと…。お前、こんなに傷だらけになって!」
僕が小学校二年の時に拾ってきたとまと。どうしても飼いたくて、全て自分で面倒を観ると約束をしたとまと。だけどただ名前が気に入らないからという些細な理由で嫌いになり、無視し、罵声を浴びせ、八つ当たりをし続けたとまとが、傷だらけになって息も絶え絶えになって倒れている。
「早く。早く、病院に行かないと!とまとが死んじゃうじゃないか!」
「病院ならとっくに行ったでしょ。入院して、お医者様は出来る限りのことをしてくれたわよ。だけど、もうどうにもならないって。最期は自宅で、家族の元で看取ってあげてくれって今朝言われたのよ」
どうして忘れていたんだろう。そうだ。夏休み最期の日。僕は明日から始まる新学期が嫌で、いつものようにとまとに愚痴ったり八つ当たりしていた。だけど、どうしてもイライラが収まらなくて、つい小さなとまとのことを突き飛ばしてしまったんだ。とまとは声を震わせながら、怯えながら、それでも寂しそうに僕に許しを請うていた。だけど僕がそっぽを向いて追い払う仕草をしたから、とうとうあいつは家を出て行ってしまった。よろよろとふらつきながら、哀しい声を上げながら。まるで、僕が喜ぶならそれでいい、とでもいうように。
その瞬間だった。轟音を上げて路地を急旋回しながら、暴走族のバイクが現れたのは。とまとは驚きながらも機敏な反応ができず、僕の目の前で無残にも跳ね飛ばされ、僕の目の前に横たわった。その光景が、封じ込めていた記憶が溢れ出て僕の平常心という名のダムを決壊させた。
「とまと、ごめんよ。吉野、僕が悪かった。とまと…吉野…。僕を許しておくれ」
一瞬で目の前が真っ白になり、世界が反転し、渦を巻いて壊れていく。ここ数日の夢と現実の間に起きた気絶とは違い、異様に意識がはっきりしたままだが、確かに夢と現実が入れ替わることが理解出来た。
「吉野?吉野!」
そこには、裸足で飛び出したまま、向かいのアパート前で倒れ込んだ吉野の姿があった。周囲には誰もおらず、何かにぶつかった様子がない。急にどうしたというのだろうか。
「おい、どうしたんだよ?しっかりしろ!」
体を引きずりながらも慌てて吉野の元に駆け寄り顔を覗き込むと、僕以上に顔が火照って尋常ではない量の汗が飛び出ている。
「公ちゃん」
「どうした?どこか痛むのか?」
「やっと、気付いてくれたんだね」
「だから、今そんな場合じゃないだろ!」
「ううん、俺にとっては、一番大事なこと。俺にとって、公ちゃんは。公ちゃんは俺の、世界でたった一人のご主人様なんだから」
「ああ、分かってる。だから、もう喋らなくていい。今までごめんな。僕は、お前に甘えていた。何をしても許してくれる、愛してくれるお前に。今まで有難うな、とまと」
吉野は、とまとだった。
「公ちゃん!」
今にも息が途絶えそうなのに、死ぬ程苦しいはずなのに、僕の感謝の言葉を聞いた途端、全身で幸せを感じ、僕に飛び付いてきた。とまとの体は冷え切っていたが、僕にはとても暖かいものが触れたように感じた。
「僕だって、本当はお前のことを大切に思っていたんだ。だけど、僕は弱いから。僕は名前が変わっているせいで皆からいじめられていた。最初はそれを黙って聞いてくれるお前に本当に癒されていた。だけど、同じ変わった名前のお前が家族から愛されているのを見て、だんだん腹が立ってきて。最初は冗談で頭を小突いただけだった。小突いても、お前は今までと同じように僕に笑いかけてくれた。いじめが続けば続くほど、お前への八つ当たりがひどくなったけど、お前は相変わらず僕を愛してくれた。お前への愛情だったはずの行為が、いつのまにかお前を虐げる行為になってしまっていたんだ。
「わかってたよ」
「え?」
吉野の声が、聞こえる。口は、呼吸をするだけで精一杯だというのに、今までの中で一番吉野の声がはっきりと聞こえる。懐かしい。昔はよくこうやってとまとと話をしていたものだ。
「僕は、嬉しかったんだよ。僕にイライラをぶつけてくれて。僕に気持ちを伝えてくれて、嬉しかったんだ。学校でどんな目にあったのか、どんな辛い思いをしてきたのか、何が公ちゃんの喜びなのか、誰が公ちゃんの恋する女性なのか。それって、無視されるよりもよっぽど嬉しかったんだよ。だから、僕の出来る限り、公ちゃんの愛を受け入れようとした。だけど、あの日公ちゃんは、僕のことを無視して、あっち行け、って僕を追い払った。だから僕は、もう僕じゃ公ちゃんの役には立てないんだと思って、本当に哀しかったけど、自分から公ちゃんの側を離れようって決めたんだ。それが、公ちゃんのためになるんだからって自分に言い聞かせて。だからね公ちゃん。僕は君のこと全然恨んでいないんだよ。それに、公ちゃんが僕にしたことを後悔してくれたからこそ、僕は夢の中でまた公ちゃんに逢えたんじゃないか」
「そうだったのか」
「うん。僕もよくは分からないんだけど、僕の公ちゃんの役に立ちたいっていう想いと、公ちゃんの僕ともう一度やり直したいって言う想いとが一致したから、夢に吉野の姿で現れることが出来たみたいなんだ。公ちゃんたちと違って僕は犬の体から急に人間になったから、どっちが現実でどっちが夢かは、僕にははっきり分かっていたよ」
段々、ここ数日のおかしな出来事が理解出来てきた気がする。僕がとまとのことで大きなショックを受けてから、夢でとまとが吉野として現れるようになった。でも、だとするとおかしな所がある。とまとは、吉野として夢の中に現れたと言っている。でも、僕が吉野を見たのは、いつも現実だとばかり思っていたのだが…。
「そう。公ちゃんはどうやら、僕が事故に遭ったショックで夢をうまく操れる力が暴走しちゃったみたいなんだ。最近公ちゃんは、夢と現実を、全く逆にとらえていたんだよ。気付かなかった?」
「そ、そうだったのか…」
今まで現実だと思っていた方が夢。夢だと思っていた方が現実だった。だとすると。駄目だ。ただでさえ頭が一杯なのに、すぐには整理出来ない。
「僕はね、公ちゃんがいじめられている学校に行って、どうにか公ちゃんを助けてあげたかったんだ。でも、僕が助けてあげられるのは夢の中だけ。いじめを止めることなんて出来はしなかった。だから、僕は木実ちゃんと仲良くしてあげたいなと思った」
「なるほど。そうだったんだな。ありがとう吉野、いや、とまと」
心の隅でそれも結局は夢の中の話では、と思ってしまったが、僕は精一杯の感謝の気持ちを込めて言った。
「ふふ、有難う。でもね、さっきも言ったけど、どうやら現実から夢に現れていたのは僕と公ちゃんだけじゃなかったんだ」
どうやら、僕の考えは全てとまとには筒抜けらしい。しかし、その人物のことがどうしても気になる。まさか、その人物とは。
「もちろん、君の大好きな木実ちゃんだよ。木実ちゃんもずっと、男同士の触れ合いが見たいっていう強い思いがあったみたいで、三人の気持ちが一つの共同の夢を見せることに成功したってことらしい。だからね公ちゃん。君はもう、木実ちゃんととっても仲良しなんだよ。木実ちゃんが腐女子だって知っている唯一の人物だし、木実ちゃんのありのままの性格を知っているのも公ちゃんだけ。君は自分から木実ちゃんを誘って、お互いに名前で呼び合ったり相談できたりする仲になったんだ」
そうか。吉野は、僕の夢にしか出ていない。逆に僕が夢だと思っていた、吉野が出てこなかった時のことは現実だったのだ。母が僕のことを責めた時と、僕が木実ちゃんと屋上で話した時のことは。
「僕は、公ちゃんが自分の言葉で愛を伝えてくれたことと、木実ちゃんとの関係を手助け出来たことで十分満足しているんだ。だから、そろそろお別れだね」
そうか。とまとの言う通りだとすると、三人のうちだれかの気持ちが十分満たされれば、この奇跡のような出来事は終わりになってしまうのだろう。だが、それでは僕が困る。
「ダメだ!ダメだよとまと。まだまだ、僕は君としたいことが一杯あるんだ。一緒に散歩したり、遊んだり、ドライブに出かけたり、お互いの好きな人のことを相談したり。まだ僕は、一人じゃ何も出来ない弱虫なんだ!だから、もっと生きてくれよとまと!」
「ごめんね、公ちゃん。僕の体力も限界みたいなんだ。だから最期に、公ちゃんに一つだけお願いがあるんだ」
「何だい、何でも言ってくれよ。とまとのお願いなら、僕は何でもきいてあげるから」
「ありがとう。僕の最期のお願いはね…」
第四部 了
次回予告
エピローグ
投稿予定日
08月29日00時