人生最大の恐怖は、夢がないことだ
レッドは無造作にサトシのポケットからポケモン図鑑を取り出し、ピカチュウをスキャンした。 『ピカチュウ。技:たいあたり、でんきショック、なきごえ、しっぽをふる』 ごく初期の、シンプルな技ばかりだ。
次に、彼は自分のピカチュウをスキャンした。 『ピカチュウ。技:10まんボルト、アイアンテール、かみなり、ボルテッカー、しんそく……』 並べ立てられた技の名前に、そばにいたカスミは呆然とした。「かみなり」は高レベルのポケモンしか覚えられない大技だし、その後の「ボルテッカー」や「しんそく」にいたっては聞いたこともない。
(新米トレーナーが、いきなりレベルカンストのピカチュウを手に入れたっていうの!?) (それとも……この図鑑、壊れてるの?)
レッドが本気で戦う気だと察し、ロケット団も応戦するために二つのモンスターボールを投げた。 『ドガース。どくタイプ。とってもキュートなポケモンです』 『アーボ。どくタイプ。さらにキュートなポケモンです』 図鑑が再び自動で解説を読み上げた。
カスミ:「……」 (間違いない。この図鑑、水没してイカれてるわ……)
「ピカッ!」 その時、サトシのピカチュウがやる気満々で声を上げた。
「……」 しかし、レッドはサトシのピカチュウを戦わせることはしなかった。これはあくまでサトシという少年のピカチュウであり、彼のものではないからだ。 それに、このピカチュウはまだ初陣を経験していない。記念すべき最初のバトルは、元の持ち主に残しておくべきだと直感した。
「構えろ、ピカチュウ」 レッドが低く呟くと、傍らにいた少しふっくらとした「初代」風のピカチュウが、本能的に突撃の姿勢をとった。その眼差しは鋭く、ロケット団の三人組を射抜く。 一瞬、最上位の捕食者にロックオンされたかのような寒気が三人組を襲い、彼らは思わず一歩後ずさりした。
「くっ、なんなのよ、あの電気ネズミ! 妙に怖いわね!」 ムサシは顔を振り払い、先制攻撃を仕掛けた。「ただのハッタリよ! アーボ、かみつく!」
「ピカチュウ、でんこうせっかだ」 レッドは命じると同時に、もう一匹のピカチュウに向けて言った。 「よく見ておけ、ちびピカチュウ」
レッドは先ほど、この小さなピカチュウが放った雷を目撃している。空の雲に穴を開けるほどの威力。その潜在能力は、自分のピカチュウに決して劣らない。 いや、それ以上かもしれない。 ならば、教育の手助けをしてやるのも悪くない。
大きなピカチュウの体が白い光と化し、超高速で移動した。その場に残像を残すほどの速さに、アーボの牙は空を切り、地面に直接ぶつかった。 「速すぎる……」横で見ていたカスミも目を見開き、感嘆の声を上げた。 その時、サトシの図鑑から通知が響いた。 『ピピッ。あなたのピカチュウは新しい技:でんこうせっかを覚えました!』
それを聞き、レッドは少し驚いた。(瞬時に見て覚えるとは、やはりこのピカチュウの資質は並外れているな……)
「なら、もっと速く。ピカチュウ、しんそく!」 「ピカッ!」 大きなピカチュウが短く鳴くと、体を覆っていた白い光が不気味な緑色の光へと変わり、速度が跳ね上がった。肉眼では捉えきれない残像すら消え、広くないポケモンセンターのロビーには時折、緑の光が走るだけとなった。
「な、何なのこれ!」ムサシとアーボは驚愕した。ピカチュウの姿が完全に消えてしまったからだ。 「どうだ、ちびピカチュウ。ついてこれるか?」レッドが静かに問う。 「ピカ……」 小さなピカチュウは首を振った。今の段階では、まだ「しんそく」を理解するのは難しいようだ。 「いい。その動きだけ覚えておけ」 今ここに種を植えれば、いつかこの特別なピカチュウにも「しんそく」の光が宿る日が来るだろう。
一方、ムサシが翻弄されるのを見て、コジロウが慌てて加勢した。 「ドガース、どくガスだ!」 姿が見えないなら、広範囲攻撃だという判断だ。
レッドは冷静に指示した。「出させるな。ピカチュウ、エレキネット」 高速移動のポーズのまま空中で静止するように現れたピカチュウが、空中で身を翻して尻尾を振りぬいた。尻尾の先には雷のエネルギーが凝縮されている。
「シュッ!」 放たれた雷のエネルギーは巨大な網へと姿を変え、広がる前のどくガスを完全に封じ込め、そのまま勢いを落とさずロケット団の三人組へと飛んでいった。
「トドメだ。10まんボルト!」 「ピカチュウ!!」 ピカチュウが自分の頬を激しく叩くと、一瞬で黄金の雷が爆発した。電撃の蛇が走り、エレキネットに閉じ込められたどくガスと反応して、凄まじい大爆発を引き起こした。
「ドガーン!!」 雷光が天を突き、爆発の中心にいたロケット団と二匹のポケモンを空高くへと吹き飛ばした。ポケモンセンターの天井には大きな穴が空いた。
「なんて強力な10まんボルトなの!」 「あのピカチュウ、ただの電気ネズミじゃないぜ!」 「まずはあいつをボスに届ければ、昇進と昇給は間違いなしだニャ!」
かつて、偉大な文豪・魯迅はこう言った。「人生最大の恐怖は、夢がないことだ」と。 宙に舞う三人組の心には、数十年間抱くことのなかった明確な目標が芽生えていた。 (あのピカチュウを捕まえる!)
「やな感じ~~~!」 三人は夜空の彼方へと消えていき、トキワシティの空に輝く星となった……。
…… 「ピカッ!!」 サトシのピカチュウは、憧れの眼差しで大きなピカチュウを見つめていた。その華麗なコンボ技に、すっかり心を奪われたようだ。 「お前もいつか、あんな風になれるさ」レッドはその頭を撫でて慰めた。
騒動が一段落し、天井の大きな穴を見上げたレッドは、ジョーイさんに板を借りると、屋根に登って修理を始めた。 壊したのは自分なのだから、償いは必要だ。さもなければ、「無知なよそ者」だと後ろ指を指されるかもしれないという、レッド特有の懸念があった。
後に残されたのは、完全に呆然としたカスミだけだった。 (最近の新米トレーナーって、みんなあんなに恐ろしいの……?) (あのピカチュウ一匹で、あたしたちのハナダジムが更地になっちゃうわよ……) (更地にしてから、リフォーム後にまた更地にされるレベルだわ!)
板を担いで7、8メートルはある屋根へひょいひょいと登っていくレッドの姿を見て、カスミは思わず漏らした。 「責任感のある、いい人なのかしら……」 「……あ、大事なことを忘れてる気がする!」
…… ポケモンセンターの屋根の上。レッドは夜空に浮かぶ三日月をじっと見つめていた。その深い瞳は何を想っているのか。 「このサトシという少年、体だけはやたら頑丈だな。ケンタロス並みの体力だ。バク転数回でここまで登れるとは……」
…… …… 翌朝。 カスミが部屋のドアを開けると、偶然にも向かいの部屋のドアも同時に開いた。 彼女は眠そうに声をかけた。 「おはよ、自転車泥棒……」
「あ、あんた! 昨日は本当にごめん! 自転車は絶対に返すからさ!!」 サトシはカスミの顔を見るなり、素早く、そして誠実に謝罪した。
カスミ:「???」 彼女の眠気は一瞬で吹き飛んだ。目の前のサトシを呆然と見つめる。 (あたし、ドアを開ける場所を間違えた?) 彼女は一度ドアを閉め、深呼吸をしてから、もう一度開けてみた。
「おはよ、自転車……泥棒?」恐る恐る声をかける。 「責任は取るって言ってるだろ! もう泥棒って呼ぶなよな!」 サトシも困惑していた。この女、また何かパフォーマンスアートでもやっているのだろうか? 「俺には名前があるんだ。俺はサトシ! 夢はポケモンマスターになることだ!」
カスミ:「???」 (この少年、二重人格のパフォーマンスでもしてるわけ!?)




